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ご先祖の宗教 天台宗
大乗仏教の宗派のひとつ。妙法蓮華経(法華経)を根本経典とし、天台法華宗とも呼ばれます。
入唐した最澄(伝教大師)によって延暦25年(806)に日本に伝えられました。
宗紋は三諦星(さんたいせい)。
俗名 | 三津首広野(父:三津野百枝) |
生誕地 | 近江国滋賀郡古市郷(滋賀県大津市) |
生年 | 天平神護2年(766)・神護景雲元年(767)? |
歿年 | 弘仁13年(822)6月4日 享年56歳 |
略歴 | 延暦4年(785)東大寺で具足戒を受け、比叡山で山林修行に入る。 延暦7年(788)薬師如来を本尊とする一乗止観院を建立。 延暦23年(804)還学生に選ばれ、唐へ渡り天台教学を学ぶ。 延暦25年(806)天台業2人が年分度者となる。「天台宗の開宗」 この頃から空海に密教を学ぶ 弘仁9年(818)『山家学生式』を定め、比叡山での修行法を示す。 また社会教化・布教のために中部・関東地方や九州地方に出かけ 天台の教えを広める。 弘仁13年(822)6月4日比叡山の中道院で逝去。 その7日後、最澄悲願であった大乗戒壇設立が許される。 貞観8年(866)清和天皇より伝教大師の諡号が贈られる。 |
■天台宗の歴史
日本天台宗は四宗(円・密・戒・禅)合一の総合仏教学び場として、多くの宗教指導者を輩出することになります。その歴史をみてみます。
弘仁14年(823)最澄が建立した一乗止観院に、嵯峨天皇より延暦寺の寺額が許されます。
第3世天台座主となる円仁(慈覚大師)は下野国(栃木県)の豪族壬生氏の壬生首麻呂の子として生まれ、最澄に直接教えを受けた弟子の一人です。 入唐求法して天台教学の確立に多大な功績を残します。比叡山の横川を開いています。
第5世座主の円珍(智証大師)は、讃岐国那珂郡(香川県)の和気宅成の子として生まれ、母は弘法大師空海の姪にあたるといいます。 入唐求法して密教を体系的に整備し、後に東密(真言宗の密教)に対して台密(天台宗の密教)と称されるようになりました。
晩年の円珍は三井寺(園城寺)を修行道場として活動します。 円珍歿後、円珍の門流と円仁の門流とが対立するようになったため、円珍派は比叡山を下りて三井寺に移ります。 以降、比叡山延暦寺を「山門」と三井寺を「寺門」と称するようになります。
その後も多くの僧侶が学問と修行に励み、比叡山から偉大な宗教指導者が現われます。
平安時代中期、第18四天台座主良源(慈恵大師)は衰微していた延暦寺を復興させ、伽藍の再建と天台教学の振興をはかり、延暦寺中興祖と称えられています。 良源は近江国浅井郡虎姫(滋賀県長浜市)の豪族木津氏の出身といわれています。 そして弟子の源信(恵心僧都)は『往生要集』が著わし、浄土教発展の基礎をつくっています。
平安時代末期から鎌倉時代になると、比叡山で学んだ法然・栄西・親鸞・道元・日蓮が新仏教を起こします。
室町時代、比叡山で学んだ真盛は「戒律」とともに「念仏」の重要性を説き、宮中で『往生要集』を講義するなど、その説法は分かりやすく評判が高いものでした。 真盛の教えは弟子に引き継がれ、後に「真盛派」と呼ばれるようになりました。
日本仏教の総本山として影響力を持つに至った比叡山延暦寺は、次第に武力を持つようになり、僧兵(武装した僧)を使った強訴など、時の権力者に自らの主張を通すようになります。 さらに経済力も持つようになり、朝廷も無視できない宗教勢力に成長、奈良興福寺と並んで恐れられました。
僧兵を充実させ独立国状態の比叡山に対して、政権に反抗する武装集団とみなした室町幕府は武力を用いて制圧しています。
そして織田信長による比叡山焼き討ちが行われます。反信長の朝倉・浅井氏に味方した延暦寺に対して、 信長は延暦寺の武装解除を決意、延暦寺の堂塔は炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害されました。
江戸時代になると、幕府によって根本中堂をはじめ諸堂の再建が行われ、天海(慈眼大師)が徳川家康の朝廷・宗教政策のブレーンになるなど、その勢力を盛り返しました。
■宗派と寺院
天台宗(山門派) | 本山:比叡山延暦寺 | 大津市坂本 | |
天台宗(寺門派) | 本山:長等山園城寺 | 大津市園城寺町 | |
天台真盛派 | 本山:戒光山西教寺 | 大津市坂本 |
■天台宗の全国寺院分布
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、天台宗の分布は以下の通りです。
関東と関西に多く、とくに天台真盛派は三重県・滋賀県・福井県に集中しています。
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