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ご先祖様の仕事について

ご先祖様のお仕事の風景や内容を、現地調査で分かったことを中心にご紹介します。

石大工 質屋 寺子屋 古手屋 村医者 鉱山夫
修験者 酒造屋

石大工の仕事
 石を刻んで細工する職人のことをいい、石工(いしく)石屋とも呼ばれました。
鎌倉時代、石工技術の進歩もあり社寺造営に石材が利用されるようになると、石大工の活動が活発となります。 室町時代には、一般庶民の神仏信仰が盛んとなり、各地に石仏や石卒塔婆が作られるようになります。
戦国末期から江戸初期になると、築城用石材の需要が増加し、 また茶の湯の流行にともない、茶庭におく石燈籠や手水鉢など小型石材加工品の需要も増え始めてきました。 京都白川町はそのような石造物の需要が土台となり発展した石工の町です。

 江戸時代も中頃になると、庶民でも墓石をつくることが一般的となります。 これにより全国各地で石切場が開発され、石屋がさらに数を増やしていくことになります。
その一つ、大坂和泉の泉州石工は、石材の細密な加工を得意とし、その優秀な技能のゆえ、 関西のみならず山陰・山陽・四国などへ出稼ぎに行っています。
泉州石工 延享から寛延年間(1744~1751)の自然田村石工の場合、広島3人、鳥取1人、徳島6人、 岡山2人、三重1人、大阪1人、愛媛1人とあり、その活動範囲の広さが分かります。 そのまま定着する者もあり、今日の石材工業の基盤はこのころに確立したともいえます。
右図『和泉名所図会』より

 石工の仕事にはそれぞれ役割があります。
まず山方(採掘業者)が良質な石材を見極め切り出し、 石大工(石材加工業者)は材質の異なる石切り場から、用途にあった石材を買い求めます。 石材加工には豊富な水が必要なため、川の近くの石屋で作業を行いました。
石屋は棟梁を中心に、数人の石工職人によって経営されていました。

寺子屋師匠の仕事
 寺子屋(てらこや)とは江戸時代、庶民の子弟に読み書き、計算を中心に実務上の知識・技能を教育した民間教育施設をいいます。 手習所や手習塾とも呼ばれ、そこの先生が師匠です。
現地調査で集落を歩いていると、道端に「筆塚」という石碑を見つけることがあります。 これは寺子屋師匠への報恩のために門弟たちが建立したもので、村人から敬愛されていたかが分かります。 ここにご先祖様の名前があれば、感動ものです。

 村において読み書き、算術を教えてくださる寺小屋師匠は一目置かれる存在です。
神主や僧侶などの宗教者、庄屋などの村の有力者が師匠を務めたり、城下町では下級武士が師匠となって寺子屋を開いていました。 薄給の下級武士には重要な収入源であったようです。
私が調査したご先祖様にも寺小屋師匠がおられましたが、やはり武士から農民までその身分は様々でした。

 幕末期、寺子屋師匠の数は全国で1万5千人を超えていたといいます。
『摂陽奇観』の宝暦2年(1752)の条には、「大坂寺子屋二千五百軒余、凡七万五千人」と記されています。 これは誇張された数字かもしれませんが、それだけ寺子屋が普及し、教育熱心な庶民の姿が分かります。
就学年齢・期間に決まりはなく、下は5・6歳から入塾しました。

 学習内容は習字と読書そして算術が中心ですが、地域差もあります。
商人の町・大坂を例にとれば、教科書に商売の基礎知識を学べる『商売往来』や 地誌的な内容を盛り込んだ『大坂往来』、儒教・仏教の教訓的な内容を記した『寺子教訓書』などを使って勉学しました。
その他に『庭訓往来』『百姓往来』など往来物、人名から学ぶ『名頭』『苗字尽』、 地名・地理から学ぶ『国尽』『町村尽』『国史略』『十八史略』などの歴史書、 『唐詩選』『百人一首』『徒然草』などの古典が用いられました。
明治時代に学校制度が整備されると、寺子屋は廃業します。
ご子孫は知的職業につかれる方が多いかもしれません。

質屋の仕事
 質屋は衣類や諸道具を担保に取って、金銭の貸し付けを行う庶民にとっての金融機関のことをいいます。 よってある程度の財力が無ければ出来ない職業です。
大坂では、質屋のことを「七ツ屋」と呼び、品物を質に入れることを「曲げる」といいます。
 大坂を例にとると、質置主には質札(質物の預かり証)を発行し、 この質札と元金・利息の交換で質入れの品物を返却します。
質入れ品物の流質期限、つまり借金の返済期限は3ヶ月が一般的とされますが、質屋の裁量に任されていました。 地元の人情や人間関係があらわれる部分です。
返済期限が過ぎた質物は古手屋古道具や売られ、リサイクル商品となります。 一年を通じて質屋が多忙を極めるのは、衣替えの季節である5月と9月、そして年末です。
質屋の規模も大手から小商いまで様々ですが、庶民にとっては無くてはならない存在であったようです。

 その様子を『日本永代蔵』から紹介しましょう。
「この家に質を置きにくる人々の様子を見ると、なんとも悲しいことが多い。
降りかかる雨に濡れながら、古傘一本で六分かりていく者もあれば、 朝飯をたいた跡をまだ洗いもしない釜をさげてきて、銭百文かりていく者もある。
八月になってもまだ帷子を着ている女房が、薄ぎたない腰巻一枚で三分かりて、肌の見えすくのもかまわずに出ていく。
また八十ぐらいの腰のかがんだ婆が、うまく生きたところで今年いっぱいはどうかと思われる身でありながら、 銭なしでは一日も暮らされず、両手のない仏一体と肴鉢ひとつを持ってきて、四十八文かりていくのもはかない浮世である。
そうかと思うと、十二、三の娘が六つ七つの男の子と、長い昇梯子をあと先になってやっとかついできて、銭を三十文かりて、 すぐさま店の片隅で売っている玄米五合と薪を買って帰る。 さてもせわしい暮し向きだ。
脇からちょっと見てさえ身にこたえて涙が出るほどだから、質屋の亭主はなかなか気が弱くては勤まらない商売だ。」
(日本永代蔵巻三・世は抜取りの観音の眼 小学館ライブラリー現代語訳)
なんとも庶民のリアルな生活が伝わってきます。

古手屋の仕事
 古手屋は古手(古着)反物を小売する商売です。
江戸時代の庶民の衣料品の中心は、新製品ではなく古着です。 このような古手(古着)を扱う職業をいいます。

 古手屋は行商スタイルの振売や店頭販売の小売店から、 古手仕入れと卸しを行う古手問屋まで、その業態や規模は様々でした。
古手商品は質屋、問屋、古手を集めの専門業者の古手買から仕入れます。
古手販売で注意すべきことの一つに、盗品の販売です。古手業は犯罪の温床になりやすく、大坂町奉行所も目を光らせていました。
ちなみに鹿の子絞りの打掛(うちかけ)が目玉商品だったと思われます。

 古手屋小売の様子が分かる書物に、『古手屋喜十為事覚え』(ふるてやきじゅうしごとおぼえ 宇江佐真理著 新潮社)があります。
物語の中心は江戸北町奉行隠密廻り同心の上遠野に協力し事件を解決に導く捕物ですが、古手屋としての生活情景を知るには良い参考図書です。
その一節からの引用です。
「江戸が夏の季節を迎えると、浅草田原町二丁目の古手屋「日乃出足」は見世の軒下に、 もの干し竿を渡し、そこへ衣紋竹に通した古着を吊り下げる。
品物を外に出すことで通り過ぎる客の目を引くし、また虫干しにもなる。 日乃出屋は普段でも古びた臭いが漂っている。
人が一度身につけた衣服は、どんなにきれいに見えても汗と埃がしみついて。 一着だけなら特に気にならないが、これが束になると、新品とは明らかに違う古びた臭いが鼻につく。
また店座敷にぶら下げた古着は外から流れ込む風を遮るので、見世の中には熱気がこもる。 夏は頭がくらくらするほどの暑さだ。
土間口の戸を開け放ち、品物を幾らか外に出すことで狭い見世に風が通るのだ。
この季節は見世の外に床几を出し、そこに座って商売をすることも多かった。」

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