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ご先祖様の仕事について

ご先祖様のお仕事の風景や内容を、現地調査で分かったことを中心にご紹介します。

石大工 質屋 寺子屋 古手屋 村医者 鉱山夫
修験者 造酒屋

村医者の仕事
 江戸時代の医者には現代のような免許制度はなく、医者に弟子入りして医術を学び、 その力量が認められ、師匠に独立を許された後に開業するという流れが基本でした。 ある意味、誰でも医者になれたわけですが、腕のいい医者には患者は集まり、腕の悪い医者(やぶ医者)には患者は来ません。
当然、繁盛しない医者は廃業するという現実もありました。

 しかし、漢文で書かれた医学書を学ぶ必要もあることから、 ある程度の教育を受けることができる武家や富裕な商家、地主農家の子弟が就きました。
私が調査した事例でも、武家もしくは庄屋クラスの富裕家の次男・三男が、江戸や城下の町医者で医術を習得して、 帰郷して開業医となっていました。
また医者は有識者であり、苗字帯刀も許されることから、村の中でも良い待遇を受けていたようです。

 江戸時代の診療科としては、内科・外科・眼科・口科(歯や喉、唇を診察)・針科(針を用いる)・児科(小児科)・産婦人科などがあったといわれています。
その診療方法は、患者から症状を聞く「問診」、患部に触れる「触診」、 患者の顔色や挙動を診る「望診」、呼吸音や動悸、体臭を診る「聞診」などがありました。
診察代は医者が自由に決めていたようで、患者の経済力に応じて値段を決め、 貧しい患者からは診察代を受け取らない良心的な医者もいたようです。
一方で、金持ちの患者だけを診察する町医者の中には、高額の謝礼も入り、大金を稼いだ者もいました。

鉱山夫の仕事
 出羽国の藩直営鉱山を例に、江戸時代の鉱山夫の仕事をみてみます。
鉱山の開発は藩が管理統制し、採掘には藩の許可が必要となります。藩は鉱山の開発経営を山師(やまし)に請け負わせ、運上金(納税)を納めさせます。 こういう鉱山を請山といいます。これに対して藩直営の鉱山を直山といいます。
山師には山を見立てて鉱石の有無を判断する能力の他、経営力も必要とされました。そのため資本力がある商人が目立ちます。

 山師の下に、採掘抗(間歩または鋪という)と鉱山労働者の一切を統括する金名子(かなこ)がいました。 大きな鉱山になると、十数人の金名子がそれぞれの採掘抗を担当することになります。
金名子は以下の鉱山労働者を配下に採掘を行います。
 鉱脈に通じる坑道ごとに採掘にあたる堀大工
 鉱石を搬出する掘子
 測量にあたる寸甫(すんぽ)
 落盤防止の工事をおこなう山留大工
 坑道の湧水を汲み出す水汲み人夫
 道具を修理する鍛冶職人
金名子はそれぞれ数十人の鉱山労働者を抱えることになります。
金名子は月に三度人員の調べを受けて、その人数に応じて藩から扶持(飯米)や必需品の購入代金を受け取ります。
同じ釜の飯を食い、しかも生命がけの職場であったため、強い主従関係が生まれ、鉱夫仲間も連帯感があったようです。
採掘された鉱石は、選鉱、精錬を担当する床屋に渡されます。

 山師金名子の間には固定的な関係はなく、金名子は良鉱を求めて配下の鉱山労働者とともに各地を流動しました。
鉱山労働者には一つの鉱山に定住し家族を持った自鉱夫と、鉱山を移動する渡り鉱夫がいました。 しかし、自鉱夫でも閉鉱などで他鉱山へ移り、再開されれば戻るなど流動的でした。

 死の危険がともなう鉱山労働において、神事祭祀は重要な内容を持っていました。 特に鉱山の守護神とされる山神信仰は全国各地の鉱山で篤く祀られていました。
一方、坑内での念仏は慎むべきものとされていました。「死」との関連性が強いためか仏教的なものとは縁が薄いようです。
しかし、山岳信仰に根をおろす修験道は受け入れられたらしく、山伏修験の行場も鉱山の近くにありました。

修験者(山伏)の仕事
 役小角(えんのおづぬ)に始る修験道の行者、山伏ともいいます。 山岳にこもり密教的な神秘的呪法を身に付け、民衆に対しては加持祈祷を行い、現世利益的な宗教活動を行いました。

 戦国時代、僧侶や修験者は足腰が強く、旅慣れているだけなく、関銭(通行税)が免除される特権をもっていたため他国に怪しまれることなく移動できました。 よって戦国領主はスパイ活動や政治的使者に僧侶や修験者を利用していました。 甲斐武田氏も修験者を活用しており、国中の修験者を組織化しています。

江戸時代になると、幕府は宗教統制の一環として慶長18年(1613)に修験道法度を定め、修験者は真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派のどちらかに所属することを命じます。
真言宗系の当山派は京都醍醐寺三宝院を本寺に、天台宗系の本山派は京都聖護院を本寺としています。

 修験者の暮らしをみてみます。
修験者は居宅を構え、所管する社や農地・先祖墓地を所有しています。宗教活動以外は村人と同じです。 このように村落に定着して祈祷師・呪禁師として活動する修験者を里山伏・里修験といいます。 先祖調査で出会うのは里修験がほとんどです。
また地域を巡回して信仰圏を成立させ、信者の宿泊と廻檀を中心的活動とする御師(おし)とよばれる宗教家もあります。伊勢講や富士講がこれにあたります。
里修験は、村人から「法印様・別当様・山伏様」などと呼ばれ、民間信仰の中で指導的役割を果たしてきました。 日待講や恒例化している宗教行事の祭祀、雨乞いや除災のための加持祈祷を行っています。 とくに治病や除災などの現世利益的領域は里修験が一手に引き受けていたといっても過言ではありません。
また特定の家と師檀関係を結び、定期的に廻檀しては屋敷神の祭祀を行い、家族の厄除けや無病息災を祈念することも多くありました。 このような宗教的行為に対する布施が里修験の経済的基盤となりました。
さらに里修験のなかには寺子屋を開いたり、神楽や能舞などを指導したり、村の教育や芸能文化で重要な役割を果たす者もいました。

 明治新政府は神道国教化の方針をかため、それまで広く行われてきた神仏習合(神仏混淆)を禁止するため、明治元年(1868)「神仏分離令」を発します。 これに伴い、神社に奉仕していた僧侶には還俗を命じられ、神社で仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることを禁じました。
続いて明治3年(1870)閏10月「天社神道(陰陽道)禁止」、明治5年(1872)9月「修験宗禁止」を布告します。 この修験宗禁止により修験者(山伏)は真言宗もしくは天台宗に属す僧侶となるが定められます。
これにより修験道の宗教的行為や活動は実際的に禁止され、檀家を持たない修験者は還俗することを余儀なくされました。

造酒屋の仕事
 造酒屋が蔵で酒を醸造し販売する仕事です。農村には壷や甕による少量の造酒屋もありますが、木製大桶などによる大量醸造の造酒屋を考えてみます。
 造酒屋を経営するには、優れた原材料(米・水・麹など)、高い醸造技術(酒師・麹師)、大規模な酒造場、そして市場とそこへ物流インフラが必要となります。 つまり資本金が必要です。よって大地主や事業家などの素封家が多く、地域の名士的な家柄が造酒屋を経営しています。
 酒造りの工程をみてましょう。
 まずは原料となる酒造米の精米・洗米・蒸米の工程を経て、蒸米に麹菌を付着させてが出来上がります。このに水・酵母・乳酸菌、さらに蒸米を加えて酒母を造ります。 この酒母を発酵させたものが、酒の元となるもろみです。次にもろみを搾り、酒粕と原酒に分ける上槽(じょうそう)という作業があります。 その際、目の粗い酒袋でこして、白濁したものがにごり酒、しっかりこしたものが清酒です。

 酒造りには大量の「米」を使います。米本位で経済や社会の仕組みを回していた江戸時代において、「米」の作況は食料供給のみならず、社会経済に大きな影響を与えました。 つまり飢饉などで米不足となれば酒造りを控えさせ、逆に豊作が続けば米価が下がるため、積極的に酒に加工させ、大消費地の江戸など都市部へ移出させました。
 また幕府や諸藩にとって造酒屋からの税収(酒運上)は貴重な財源でもあり、米価の調節機構としても造酒屋は必要不可欠な存在でした。
 酒運上とは、造酒屋の営業税と、以下に記す酒株(酒造株)の発行手数料といえます。のちに酒造冥加とよばれます。

 幕府や諸藩は米相場や食糧事情によって、酒造りを統制しました。その一つが酒醸造業の免許である酒株(酒造株)です。 造酒屋は酒造米の使用量の上限が定められ(酒造株高)、造酒屋の規模に見合った酒造米を、その年の米の収穫量や作柄に応じて仕入れる仕組みを作りました。 つまり酒醸造業は勝手に開業出来ないというわけです。
 しかし経営は山あり谷ありで、時に経営不振に陥り、倒産・廃業に至ることもあります。このような場合、近くの有力造酒屋がその酒株を買い受けて、経営規模を拡大することがありました。

 ところが文化文政年間は豊作が続き、米の在庫が増えすぎて米価が下落しました。幕府や諸藩は酒造業を奨励し、だぶついた米の消費と酒冥加金による税収UPを目論見ました。 文化3年(1806)、幕府は届出すれば酒造りができるという「勝手造り令」を出してしまいます。酒株制度の有名無実化です。
 当然のことながら従来の株持ち造酒屋は反発し、無株造酒屋との軋轢が生じ、酒造業界は大混乱に陥ります。
 幕府は再び新規参入を禁止しますが、この場当たり的な対応がさらなる混乱を招き、密造酒の横行や、株持ち造酒屋が無株造酒屋に格安で下請けさせることがおこります。

 明治新政府は、明治8年(1875)酒株(酒造株)を廃止し、あらたに酒税を定めました。 これにより資金を持つ地主らが酒造業に参入出来るようになり、1年の間に大小含め3万を超える酒蔵が誕生したといいます。
 明治13年(1880)、明治新政府は造石税と呼ばれる醸造税を定めます。これは出来上がった清酒を倉に貯蔵した量に課せられる税金です。 すなわち酒の販売量に関係なく、生産量に応じて税金を納めるという仕組みです。税金の前納というわけです。
 これにより資金力、販売力に乏しい造酒屋は、忽ち資金繰りに行き詰まります。設備投資や醸造技術に劣る小規模事業者はなおのことです。 酒税納期が迫っても、予定の売上を出せない酒蔵では、投げ売りや、大手の造酒家に買い取ってもらうこともあったといいます。
 このようなことから造酒屋は次第に淘汰されていきました。

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