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大分県のご先祖調べ
律令制における豊後国の全域と、豊前国の宇佐郡・下毛郡に相当します。
■戦国期以前の大分県
南北朝時代から戦国期の豊後国には、北部九州に勢力を築いた守護大友氏の発展と衰亡に大きく影響されます。
大友氏の豊後入国は、蒙古襲来に備えるため下向した3代大友頼泰からとされています。
足利尊氏が建武政権と対立すると、7代大友氏泰は尊氏を支持し、その功績により肥前・豊前・日向の守護に任じられています。
今川了俊の九州探題就任当初、10代大友親世は探題方として南朝方征討に尽力しますが、
次第に強権的となった今川了俊を恐れ、将軍足利義満や大内義弘と共謀して了俊を失脚させています。
応仁の乱がおこると、大友氏は東軍、周防・長門の豪族大内氏は西軍に味方し、対立関係になります。
この頃になると大友氏内部の綻びが大きくなってきます。
16代大友政親と、守護職を継承した17代大友義右が不和となり、この隙を狙って大内義興が侵攻しています。
明応5年(1496)大友政親は大友義右を殺害しますが、政親自身は大内氏により自害に追い込まれ、大友氏は滅亡の危機に立たされます。
大友氏存亡の危機に、政親の異母弟・大友親治が立ち上がり、家中の混乱を収拾し、嫡男大友義長に大友家当主を相続させ、
幕府管領細川政元や将軍足利義澄と通じて、大内勢を破り、大友氏の戦国大名化への土台を築きあげています。
家中の内紛を鎮圧した20代大友義鑑(大友義長子)は、積極的な領土拡大に乗り出し、筑後と肥後北部へ進出を試みます。
しかし家督相続をめぐり家中が対立し、義鎮派は重臣の津久見氏・田口氏によって命を落とします。
そして家督を継いだのが、キリシタン大名として知られる第21代大友義鎮(大友宗麟)です。
有能な家臣団を掌握できた大友氏は飛躍的に勢力を拡大します。天文20年(1551)大内義隆が家臣陶晴賢の謀反により死去すると、弟大友晴英(大内義長)を大内家当主に送り込み、周防国や長門国に影響力を持つに至ります。
しかし弘治元年(1555)陶氏を撃破した毛利元就が台頭し、天正年間になると九州制覇を目指す島津氏が北進、天正6年(1578)「耳川の合戦」で大敗を喫し、大友氏は衰退に向かうことになります。
大友氏に援軍を求められた豊臣秀吉はこれを好機と天正15年(1587)大軍を九州へ差し向けます。島津氏が軍門に下り、豊後国は大友氏に安堵され、豊臣大名に列せられることになります。
ところが22代大友義統は朝鮮出兵での失策により改易、鎌倉期以来の名族大友氏は豊後から消えることとなりました。
戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。
豊前国南部には宇佐神宮の大宮司宇佐氏族が広がり武士化していきます。以下に宇佐氏族を記します。
永弘・稲男・益永・乙咩・平田・佐々礼・元永・高田・横代・岩根・稲用・安心院・ 宮成・吉松・到津・鏡山・坂本・江島・志月・馬場・鶴成・山下・壇・賀来・石垣・ 荒木・谷川・白仁・ト野・鹿島・広門・坂梨子・野尻・松崎
同じ大宮司大神氏からは、小山田・祝・今永・深見の諸氏が出ています。
つぎに豊後国をみてみます。
まず大神氏族の緒方氏が豊後国南部を本拠に武士団を形成しています。以下に大神氏族を記します。
佐伯・雄城・小原・田尻・下郡・真玉・田吹・小深田・敷戸・木上・東家・長峯・ 由布・賀来・徳丸・堅田・夏足・都甲・秋岡・高城・上野・陣・阿南・安藤・栃原・ 森迫・稙田・世利・芦刈・胡麻津留・稗田・小井手・大津都・深田・橋爪・神志那・ 奈須・高千穂・野尻・直入・城原・野津原・入倉・十時・大野・緒方・臼杵・佐賀・ 沼田・高野・清田・高畑・亀岡・荒木・野尾・竹屋・田北
玖珠郡を中心に勢力を築いた清原氏は天武天皇の皇子舎人親王の末裔とされ、以下の氏族を分出します。
小田・魚返(おかえり)・古後・太田・森・松木・恵良・野上・岐部・平井・帆足・ 下恵良・長野・飯田・大窪・岩室・片平・菌田(たけだ)・右田・中島・田奈具・本田・ 御手洗・光永・大佐井
国崎郡山香郷からは紀姓の山香氏、都甲荘からは大神姓の都甲氏がおこります。
日田郡からは大神姓の日田氏がおこり、財津・羽野・坂本の諸氏を分出します。
速見郡からは速見氏が出ています。
豊後国で最も繁栄したのが豊後守護職の大友氏です。
源頼朝落胤説がある藤原姓大友能友を祖としています。母方の波多野氏が相模国足柄上郡大友荘(現・神奈川県小田原市)を領知していたことから大友氏と称したといいます。
大友氏から多く庶家が現われ、とくに詫摩氏、志賀氏、田原氏は有力です。その他に以下の氏族が分出します。
堤・入田・勢家・利光・立花・松岡・戸次・野津原・狭間・木付・田北・竹中・利根・ 清田・津守・臼杵・片賀瀬・鵜本・真玉・藤比・元吉・高尾・豊前・石丸・袴田・ 朝倉・藤北・大部・得永・俣見・板井迫・須郷・吉岡・日差・城後・岩屋・成松・ 冬田・奴留湯・別当・長小野・小津留・久土知・椎原・海部・一万田・豊饒・原・ 石合・久保・吉弘・直入・田口・竹迫・波津久・平井・大神・亀山・荒瀬・速見
大分県の苗字ベスト20位は以下の通りです。
1佐藤 2後藤 3河野 4小野 5渡辺 6安部 7工藤 8高橋 9阿部 10甲斐
11首藤 12田中 13井上 14山本 15衛藤 16吉田 17矢野 18三浦 19川野 20伊藤
大分県は九州の中にあって東日本的な苗字の特徴があります。第1位には佐藤が入り、渡辺・高橋・伊藤・三浦も20位内に入っています。 一方、田中・山本などは10位圏外です。さらに愛媛県に多い河野氏や高橋氏が上位にきます。 大分県は東から入る九州の玄関口であったことを想像させます。
■江戸時代の大分県
江戸時代の大分県は8つの小藩と日田代官所支配の幕府領に分かれていました。
日田代官所は西国筋郡代と呼ばれ、全国の幕府領のうち2番目の広さを管轄しました。 また島津氏・細川氏・鍋島氏・黒田氏など九州諸藩の動静を監視する役目もあり、代官より格上の郡代として位置付けられました。
廃藩置県時には以下の藩と幕府領があります。
藩名 | 城下町 | 主な藩主の変遷 |
中津藩 | 中津市 | 奥平氏 |
杵築藩 | 杵築市 | 能見松平氏 |
日出藩 | 速見郡日出 | 木下氏 |
森藩 | 玖珠郡玖珠町 | 久留島氏 |
府内藩 | 大分市 | 大給松平氏 |
臼杵藩 | 臼杵市 | 稲葉氏 |
佐伯藩 | 佐伯市 | 毛利氏 |
岡藩 | 竹田市 | 中川氏 |
代官・奉行 | 陣屋地 | 管轄地 |
幕府領 日田代官所 |
日田市 | 西国筋郡代 玖珠郡33村・日田郡56村 |
「江戸時代は武士」との伝承があれば、藩士名簿である分限帳を確認することをお勧めします。 城下町があった市・町の自治体史をみてください。
■大分県の家紋
大分県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典 西日本編』によると、大分県の家紋ベスト10は次の通りです。
1位 鷹の羽 2位 片喰 3位 桐 4位 藤 5位 橘
6位 巴 7位 柏 8位 木瓜 9位 梅鉢 10位 茗荷
日本の十大家紋と比べると、蔦紋、沢瀉紋がランク外となり、かわりに巴紋、梅鉢紋がランク入りしています。 梅鉢紋は菅原道真を祀る太宰府天満宮の神紋、天満宮信仰の影響もあると思われます。 巴紋は豊前の宇都宮氏族が使用しており、そのことと関係しているかもしれません。
戦国大名・豪族の家紋をみてみましょう。
北部九州で一代勢力を築いた大友氏(藤原氏秀郷流)は抱き杏葉紋を定紋とし、 その一族である戸次氏・吉弘氏・志賀氏・田原氏・一万田氏・田北氏も抱き杏葉紋を、立花氏が祇園守紋を使用しています。
豊後国南部に勢力を持った大神氏は三つ鱗紋を定紋としています。
その一族である佐伯氏は巴紋、阿南氏は三本杉紋を使用しています。
豊前国の宇都宮氏族の佐田氏は巴紋、大蔵氏流日田氏は鬼州浜紋を使用しています。
■大分県の寺院
大分県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、宗派別の割合は以下の通りです。
北部・西部 (中津・日田) |
中部・南部 (大分・佐伯) |
|
天台宗 | 4% | 9% |
真言宗 | 6% | 11% |
曹洞宗 | 22% | 3% |
臨済宗 | 11% | 28% |
浄土宗 | 5% | 8% |
浄土真宗 | 47% | 29% |
日蓮宗 | 2% | 7% |
その他 | 3% | 5% |
また他府県では少数派の臨済宗寺院が多くあります。
大分県は比較的古い墓石が残っています。隣の福岡県とは対照的です。
■大分県の神社
豊前国一之宮は宇佐市に鎮座する宇佐神宮、全国に約44000社ある八幡宮の総本社です。 古くから朝廷の崇敬を受け、称徳天皇時代の宇佐八幡宮神託事件が有名です。
主祭神は、誉田別尊(応神天皇)・比売大神(宗像三女神)・神功皇后です。
社伝などでは、571年(欽明天皇の時代)に宇佐の地に示顕なされ、725年に御殿を造立されたといわれます。
大宮司は大神比義の子孫大神氏が務め、平安中期以降は宇佐氏が主に大宮司職を世襲します。
鎌倉末期、宇佐氏から宮成氏と到津氏が分かれ、以後この2家が大宮司職を引き継ぎました。
豊後国一之宮は大分市に鎮座する西寒多(ささむた)神社または柞原(ゆすはら)八幡宮といわれています。 西寒多(ささむた)神社の主祭神は西寒多大神とされています。
神功皇后が三韓征伐からの帰途に臨幸し、本宮山頂に白旗を立てたといい、その後武内宿禰が本宮山上に祠を建てたのが始まりとされています。
柞原(ゆすはら)八幡宮は宇佐八幡の分祀として創建されたといいます。
■大分県の紳士録・人名録
国立国会図書館のデジタルコレクションにある紳士録・人名録を一部紹介します。
『日本全国商工人名録[明治25年版]』日本全国商工人名録 明治25年(1892) 職種別と商号
『大日本篤農家名鑑 [第1冊]明治43年5月』大日本篤農家名鑑編纂所 明治43年(1910) 村名
『大分県商工人名録』大分県商工人名録発行事務所 大正2年(1913) 職種別と所在地
『大分県紳士録』大悟法雄太郎編 明治37年(1904) 所在地と略歴
※姓氏の出自や由緒には諸説あります。このサイトではすべてを網羅できておりません。 参考の一つにしてください。
また出自や由緒、来歴についての質問は受けかねます。ご了承ください。