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中津藩家臣のご先祖調べ
天正15年(1587)豊臣秀吉による九州平定後、黒田孝高(官兵衛)が豊前国6郡を与えられ、馬ケ岳城(行橋市)に入城します。
それに不満を持つ宇都宮氏率いる豊前国人衆が蜂起しましたが、吉川広家ら毛利勢の援軍もあり一揆勢を制圧し、黒田氏に従った土豪衆を家臣団に組み込みました。
「関ヶ原の戦い」で戦功のあった黒田長政)が筑前国福岡藩に加増移封されると、慶長5年(1600)細川忠興が丹後国宮津より30万石で入封しました。
忠興は藩庁を小倉城に移し、中津城は支城となり城代が置かれました。
寛永9年(1632)2代藩主細川忠利は肥後国熊本藩に移封となり、代わって播磨国明石藩の小笠原忠真が小倉藩15万石を領し、播磨国龍野藩の小笠原長次が豊前国中津藩に8万石で入封しました。
中津城が藩庁となる中津藩の立藩しました。
しかし3代藩主小笠原長胤の代に、失政のため藩領が半減され、5代藩主小笠原長邕が夭逝したため領地没収となりました。
享保2年(1717)奥平昌成が丹後国宮津藩より入封します。以来奥平氏が「廃藩置県」までの155年間、中津藩を統治することになります。
奥平氏は、天正3年(1575)「長篠の戦い」で奥平信昌が抜群の武功をあげ、徳川家康の長女亀姫を娶り、徳川家中のなかでも厚遇されるようになりました。
中津藩主は蘭学好きでも知られています。3代藩主奥平昌鹿は蘭学を奨励し、『解体新書』を編纂した蘭学者前野良沢らを輩出し、
5代藩主奥平昌高は自らオランダ語を勉強し、オランダ商館長やシーボルトらと熱心に交流し、寛政8年(1796)には藩校進脩館を創設しています。
昌高は文政8年(1825)奥平昌暢に家督を譲り、隠居しています。自由に蘭学を勉強するためであったともいいます。
西洋の学問や情勢に明るかった中津藩では、外国との交易による富国強兵を目指す開国論が主流でしたが、渡辺国学と長州藩の影響から尊王攘夷を唱える者を藩論は分裂していました。
第2次長州征伐では幕府軍に加わりますが、領内防衛に終始し積極的な長州征伐の姿勢はとっていません。
戊辰戦争では新政府軍の隊列に加わり、会津戦争にも藩兵を出陣させています。
藩庁 | 中津城(中津市) | |
江戸屋敷 | 上屋敷(木挽町汐留:中央区銀座8丁目) 中屋敷(中央区明石町:聖路加国際病院辺り) 下屋敷(港区高輪4丁目) |
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石高(表高) | 10万石 | |
江戸城控 | 帝鑑間 | |
藩校 | 進脩館 寛政8年設立 | |
格付け | 城主 | |
爵位 | 伯爵 |
■中津藩奥平氏の歴代藩主
阿部氏 | 家紋:奥平唐団扇 出自:自称は村上源氏赤松氏流 |
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菩提寺:臨済宗妙心寺派自性寺 (中津市新魚町) |
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代数 | 氏名 | 官位 | 在職 |
1 | 奥平昌成 (まさしげ) |
従四位下・ 大膳大夫 |
享保2年(1717) ~ 延享3年(1746) |
2 | 奥平昌敦 (まさあつ) |
従五位下・ 大膳大夫 |
延享3年(1746) ~ 宝暦8年(1758) |
3 | 奥平昌鹿 (まさしか) |
従五位下・ 大膳大夫 |
宝暦8年(1758) ~ 安永9年(1780) |
4 | 奥平昌男 (まさお) |
従五位下・ 大膳大夫 |
安永9年(1780) ~ 天明6年(1886) |
5 | 奥平昌高 (まさたか) |
従四位下・ 大膳大夫 |
天明6年(1886) ~ 文政8年(1825) |
6 | 奥平昌暢 (まさのぶ) |
従四位下・ 大膳大夫 |
文政8年(1825) ~ 天保3年(1832) |
7 | 奥平昌猷 (まさみち) |
従四位下・ 大膳大夫 |
天保3年(1832) ~ 天保13年(1842) |
8 | 奥平昌服 (まさもと) |
従五位下・ 大膳大夫 |
天保13年(1842) ~ 慶応4年(1868) |
9 | 奥平昌邁 (まさゆき) |
従五位下・ 美作守 |
慶応4年(1868) ~ 明治4年(1871) |
■中津藩の家臣団
中津藩の家臣団は家格により以下の格式に分けられます。()内の数字は享和3年(1803)時の家臣数です。
第一級は大身(16)・大身並(1)・寄合、第二級は供番(156)・家中(42)・小姓(79)があり、以上が「上士」です。 第三級の儒者(7)と医師(32)も「上士」に準ずるとされています。
第三級の祐筆(12)と、第四級の中小姓(23)・供小姓(147)・小役人(286)は「下士」と定められていました。
下級武士の第五級組外(136)・組(202)・帯刀(130)や、仲間の侍は「卒」身分と位置づけられました。
他藩同様、藩士の婚姻や役職は家格によって定められ、礼儀作法にも差がありました。 例えば、足軽が「上士」に出会えば、雨の中でも下駄を脱いで路傍に平伏しなければならなかったといいます。
屋敷の広さも家格で差があり、大身は240坪、供小姓は105五坪、小役人は90坪、仲間は45坪と定められていました。
⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)
■中津藩の家臣
『幕末中津藩士人名録』より藩士家名
あ) | 相田・青木・赤松・秋元・秋吉・阿久津・朝倉・浅田・浅沼・蘆田・
阿知波・渥美・跡部・阿部・安部・尼ケ崎・天野・荒尾・荒川・有家・安藤 |
い) | 飯島・飯田・飯沼・飯見・衣川・生田・井口・石井・石川・石黒・石橋・石松・石丸・
磯貝・磯田・磯谷・磯見・市場・一松・逸見・伊東・稲浦・井上・
猪飼・今井・今泉・今沢・今津・今富・今宮・今村・伊与田・入江・
岩井・岩崎・岩田・岩本・諌山 |
う) | 上沢・上杉・上野・鵜飼・宇梶・宇佐美・臼木・内田・梅田・梅津 |
え) | 江野 |
お) | 大江・大木・大久保・大谷・大富・大西・大橋・大町・大森・岡崎・拝崎・岡田・岡野・
岡見・岡本・小川・奥平・奥山・小栗・小沢・於田・小田部・落合・小野・尾林・恩田・尾崎 |
か) | 甲斐・加来・角・春日・片岡・片倉・加藤・金枝・神奈川・金田・神尾・神羽・神谷・
辛島・唐津・川上・川口・川崎・川島・川田・川谷・川野・川端・川俣・神田 |
き) | 菊池・北尾・喜多村・木野・君島・木村・桐野・桐村・喜多島 |
く) | 久保・久保田・熊谷・熊田・倉成・黒岩・黒金・黒沢・黒瀬・黒屋・桑谷・桑名・桑原
|
こ) | 向坂・古宇田・河野・甲楽城・小形・小岸・越川・小幡・小林・小松・近藤・今野・権田 |
さ) | 斎藤・斉藤・阪井・酒井・坂本・佐久間・桜井・桜田・佐々木・笹部・佐島・左竹・幸原・
佐藤・佐野・沢田・沢渡・佐竹・阪 |
し) | 下岡・篠原・芝間・柴山・島田・島津・志村・下村・白石・白田・城所・新開・新庄・標葉 |
す) | 末貞・末広・須賀・菅沼・杉田・杉本・鈴木・須田・須藤・杉山 |
せ) | 瀬川・関・瀬口・瀬沢・瀬間 |
そ) | 園田・征矢野 |
た) | 高石・高木・高田・高橋・高間・高山・多川・滝川・滝本・竹内・竹下・武下・武島・武田・
武智・田沢・田島・田代・立木・田辺・田町・田村・為末・田山・垂水・滝沢 |
ち) | 筑紫・筑摩 |
つ) | 塚本・月岡・津崎・津田・土屋・恒藤・坪・坪倉・坪坂・妻木 |
て) | 手島・手嶋・手塚・天能 |
と) | 東條・土岐・徳田・戸倉・戸田・富田・富永・富山・戸室・豊浦・豊田 |
な) | 内藤・永井・永江・中上川・中里・中島・中嶋・永島・中西・中根・中野・永野・永松・中村・中山・夏目・楢原・成瀬・長沢・生井
|
に) | 西尾・西岡・西郡・西谷・西原・二宮・庭田 |
ね) | 根来 |
の) | 野口・野原・野村・野本 |
は) | 萩田・萩野・萩原・橋本・八田・服部・羽生・浜田・浜野・早川・林・林崎・速見・原・原岡・原田・
晴野・阪・半田・梁・八條 |
ひ) | 東・樋口・久恒・久松・左竹・平井・平野・広沢・広瀬・日下田 |
ふ) | 福岡・福島・福田・福知・福見・藤井・藤木・藤沢・藤田・藤野・富士野・藤巻・藤本・舟羽・古川・古田
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ほ) | 保科・星野・細田・堀田・堀・堀内・本條・本田・本部 |
ま) | 前沢・前野・前山・牧野・増田・間田・松井・松岡・松掛・松門・松川・松木・松崎・松田・松原・
松本・松山・間野・丸尾・丸岡・丸山・間利子 |
み) | 三浦・三木・水・水島・三田・南・南摩・三原・三宅・宮沢・宮野・宮村・宮本・三好・三輪 |
む) | 武藤・向野・村岡・村上・村越・村崎・村瀬・村田・村松・牟禮・棟形 |
も) | 望月・森・森下・守谷 |
や) | 安岡・安村・簗・柳・矢野・矢野目・山家・山尾・山川・山口・山崎・山田・山本 |
よ) | 横井・横山・吉川・吉田・舁嶋・吉松・米山 |
わ) | 和田・渡辺・和知 実珠山 |