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武家のライフサイクル

武家がどのような一生を送ったかをみてみましょう。

武家の元服と婚姻
 一般の武家は「十五御乗出し」といい15歳から17歳で元服します。前髪を落す「前髪執(まえがみとり)」を行い、成人とみなされました。
 婚姻は届出によって幕府・藩庁の許可が必要で、家格不相応の縁組は原則として許されません。大名の縁組は同盟関係を警戒したといいますが、一般武士の場合は身分秩序の乱れを危惧したためです。
 よって身分を超えた結婚は許されず、家(家長)が定めた縁組によって結婚するのが常でした。 このように個人の意志は二の次でしたが、天保期以後になると花見や社寺参詣・芝居見物にことよせて相手を見定める風もおこりました。
 下級武士の場合、娘を豪農や商家に嫁がせることは黙認されました。その支度金は貧乏武士にとって大きな収入になったからです。
 上級武士の場合でも身分が違い過ぎる場合は、いったん身分相応の武家の養女として縁組するという裏ワザを使っていました。
 武家は正妻(正室)は一人と定められていましたが、側室・妾を持つことは許されていました。なにより跡継をもうけることが大事だったからです。
 正妻(正室)の子(嫡出子)の長男(嫡男)が家督相続予定者になり、側室・妾の男子(庶子)は年上でも次男扱いになりました。そして正妻が母親となります。

武家は御家存続が第一
 武家にとって「切腹」以上に厳しい刑罰は「御家断絶」です。「切腹」は「責任を取って自決すること」なので、武士として名誉を保って死ねます。家禄は削減されるでしょうが「家」は残る可能性があります。 しかし「御家断絶」は武士身分は剥奪され、遺族・家臣は路頭に迷い、先祖に申し開きのできないことになります。
 そのため家の相続のために様々な努力と工夫がなされました。
 家督の相続には二種類あります。
 「家督相続」・・・・・父の隠居により相続する
 「跡式相続」・・・・・父の死亡により相続する
 事前に相続予定者の嫡子(基本は正妻の長男)を藩に届けておきます。
 「家督相続」の場合、嫡男の成長に合わせ隠居しますが、50歳前後が隠居の適齢であったといわれています。高齢では軍役を担うには無理があるからです。
 とはいえ重臣クラスになると、藩の内政事情や役職上の理由から 70歳でも現役を続ける者もいたといわれています。
 「跡式相続」の場合、「跡目」の願書を提出して許可を得ます。
 ところが相続すべき嫡子がいないと、御家断絶などの問題が生じます。そこであらかじめ親族や同家格の武家から養子を迎えることになります。
 しかし、ギリギリまで実子の誕生を期待して、なるべく養子を迎えたくないというのが親の情です。そのため不幸にも跡継ぎを決まらぬまま、当主が亡くなったこともありえます。その場合は急きょ養子を迎えることになるのですが、それが藩主の場合は深刻です。 相続者不在で御家断絶になることも少なくなく、大名だけでも59家に及ぶといいます。

武家の家督相続は長男が基本、次男三男は養子へ
 武家社会の家督(家の継承)は「主君から賜わるもの」という前提があります。ここが庶民の「家」の継承とは本質的に異なるところです。
 しかし与える主君も、家中の混乱を避けるために、一定のルールに従い家督を与える必要があります。それが嫡出の長男による家督相続です。
その長男系相続にこだわるあまり、長男(兄)が早世して次男(弟)が後継者となった場合でも、長男(兄)の子どもを養子に迎えて次代の継承者に立てることも行われました。
 新規取り立ての見込みもない次男三男が自立するには、養子となって他家を相続するしかありません。その養子先として商家や豪農が選ばれることさえありました。
養子先がなければ部屋住みとして兄の世話になるしかありません。運よく結婚できたとしても子供を儲けることを遠慮する場合もありました。

 では長男相続がどれだけ実施されたか、『継承の人口社会学』(坪内玲子著)の調査から見てみます。
 以下は各藩士系譜の18世紀分から調査した数字(%)です。
  ※萩藩は18世紀前半分

継承者 佐竹藩 会津藩 加賀藩 萩藩 佐賀藩
長男の継承 52.9 54.8 52.9 50.8 47.7
男子の継承
(次男以下を含む)
62.8 69.4 57.5 59.1 66.1
婿養子の継承 7.2 12.9 6.1 15.4 13.5
養子の継承 5.1 10.9 28.6 17.7 8.0
 30%以上は家族の男子が家督を継いでいないことが分かります。
 大きな理由が家督相続予定者の早世ですが、不行跡や出奔などの理由で継承者から排除されたケースもあります。
 その代替措置として婿養子・養子による相続が行われます。加賀藩の場合は養子相続は高い割合を占めています。養子相続の中身をみると、異姓による養子相続が多く、養子が家格や資質を考慮して実施されたことを示しています。
 少数ですが、養子の他に弟や甥による継承もあります。

武家のお金事情
 江戸時代では幕府領を「御料」、大名領を「領分」、旗本領を「知行所」、与力・同心領を「給地」といいました。
 武家の俸禄には、知行所の農民から年貢米をとる知行取と、藩蔵から俸禄をもらう蔵米取があります。
 知行取は上級武士に適用されます。「300石知行取」の場合は、300石の領地から四つ物成(40%が年貢、60%が農民の所得)として、玄米120石が武士の実収入となります。
 蔵米取には、さらに現米取扶持方との二通りがあり、中級武士には現米取が、下級武士には扶持方が多く見られます。
 現米取は俵で表示され、250俵(1俵は4斗)の場合は、武士の所得が100石になります。幕臣の場合は1俵を3斗5升、100俵を玄米35石と定め、2月と5月に4分の1、10月に残り2分の1と3回に分けて支給されました。 支給された蔵米は仲介業者の札差が食用の米を除いて当日の米相場で現金化し、手数料を差引いて、現金と米を各武家屋敷に届けました。
 扶持方は一人扶持や二人扶持と表示されます。1人扶持は1日五合で計算され、1ヶ月で1斗5升、1年で1石8斗、俵にして4.5俵が支給されます。2人扶持はその2倍です。毎月末に支給されました。これも食用米と換金して生活費に充てられました。

 武家の支出をみてみます。
 300石取の中級武家の例です。1石1両として実収入は120両になります。その支出は主人一家と家来の食費が45両、家来への給金が38両、諸雑費が40両、主人一家の衣物代が30両、 合計153両となり33両の大赤字です。(参考『近世武家生活史 入門事典』)
 俸禄に対する最も重要な責務は軍役です。武家は常時兵員を備えることが要求され、その兵員数も禄高に応じて規定されていました。慶安の軍役規定では300石取で兵員数は7人です。 俸禄の中から生産性が無い人員を多数養うため、当然家計を圧迫しました。
 下級武士ともなればさらに生活は厳しく、多くは内職・副業に精を出さざるを得ませんでした。草花の栽培、鈴虫・金魚の養殖、大工、傘づくり、竹細工などその職種は多彩で、公務より内職が本業同然となる者さえ現れたといいます。
     ⇒先祖の暮らしと貨幣制度

武家の住宅事情
 江戸時代の城下町は、天守閣・藩主の邸宅がある本丸を中心として、二の丸・三の丸に重臣屋敷を配し、その外側に身分の高い順に中級武士、下級武士・足軽と割り付けられ、さらに外側に町屋・寺院が置かれる ―これが一般的な町割りです。あとは城下の自然地形や立地条件によって個性が現われます。
 武家の屋敷地は藩主から与えられたもので、いわば官舎です。私有財産ではありません。屋敷地に広さや造りも身分・禄高により規準が設けられていました。

明治初期の士族
 明治2年(1869)の版籍奉還により、旧公卿・諸侯(大名)は「華族」、旧幕臣・旧藩士と公卿や寺社に仕えた公卿侍・寺侍・宮侍は「士族」と定められます。 そして翌3年に旧足軽などの下級士族は「卒族」に分けられます。
 しかし明治5年(1871)に「卒族」のなかで身分を世襲していた者は「士族」に、一代限りの者は「平民」に編入され、「卒族」は廃止されました。
 「士族」の人口はどれだけだったのでしょう。

族籍 人員(男女合計) 総人口の対する比
華族 2,829 
士族 1,548,568  4.6%
卒族 343,881  1%
平民 31,106,514  93.41%
僧尼 66,995 
神官 79,499 
総計 33,298,286 
 (参照:平野義太郎著『日本資本主義社会の機構』)

 次に府県別に士族戸数をみてみましょう。以下は明治16年(1883)の記録です。
府 県 名 士族戸数 府 県 名 士族戸数
函 館 1,534  札 幌 763 
根 室 23  青 森 5,976 
岩 手 2,305  秋 田 7,730 
山 形 12,282  宮 城 6,736 
福 島 7,694 
群 馬 4,426  栃 木 2,576 
茨 城 6,732  埼 玉 2,486 
千 葉 4,009  東 京 25,471 
神奈川 2,605  山 梨 246 
新 潟 7,761  長 野 6,336 
静 岡 7,838  愛 知 11,523 
岐 阜 3,572  三 重 4,992 
富 山 3,704  石 川 14,848 
福 井 5,926 
滋 賀 4,420  京 都 6,345 
大 阪 7,696  和歌山 7,503 
兵 庫 9,783 
鳥 取 5,935  島 根 4,774 
岡 山 9,125  広 島 7,852 
山 口 6,129 
徳 島 7,745  愛 媛 14,459 
高 知 9,584 
福 岡 17,602  佐 賀 17,048 
長 崎 15,753  熊 本 14,781 
大 分 6,773  宮 崎 14,558 
鹿児島 46,600  沖 縄 20,342 
 ※奈良県は明治20年大阪府より分離、香川県は明治21年愛媛県より分離。
 (参照:後藤靖著『家禄整理と士族の動向』)

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