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長崎県のご先祖調べ

 律令制における肥前国の西部と、対馬国壱岐国に相当します。
古代より朝鮮半島の入り口にあたり、先進的な文化・技術が入る一方で、大陸・半島からの侵攻に備えた防衛線でもありました。
江戸時代なると、長崎は外来文明の窓口として大きな役割を果たすことになります。

戦国期以前の佐賀県
 肥前国に関しては「佐賀県のご先祖調べ」を参照してください。ここでは対馬国と壱岐国を中心について記します。
 鎌倉時代の対馬国守護は筑前国守護を兼帯する武藤氏(少弐氏)でした。その地頭代として宗氏がいました。
 宗氏は、対馬国の在庁官人であったとされ、旧勢力の阿比留氏を滅ぼし、在地領主として台頭しました。 宗氏は本姓惟宗氏の省略形です。
 元寇の際には強大な蒙古軍に応戦し、宗助国は討ち死にしています。
 南北朝時代も少弐氏が守護職を兼帯し、宗氏は守護代として在地支配にあたります。
その後、宗澄茂が対馬国守護にはじめて補任されると、以来宗氏が守護職を継承していくことになります。
 宗氏は朝鮮半島との交易を認められ、積極的に半島との通交を行います。 しかし対馬は、半島や中国大陸の沿岸地域で海賊行為を行っていた倭寇の拠点とみなされ、 応永26年(1419)には倭寇討伐を目指す李氏朝鮮によって攻撃を受けています。(「応永の外寇」)
 李氏朝鮮との関係修復に努めた宗貞盛は、貿易協定締結に成功し、李氏朝鮮との貿易を独占していくことになります。
 ところが朝鮮貿易の利益を手に入れたい大内氏が敵対するようになり、主筋の少弐氏とともに戦いました。 しかしその戦いで宗氏は敗れ、筑前国の領地を失っています。
 天正15年(1587)豊臣秀吉の九州征伐が始まると、宗義調は秀吉の九州征伐に参陣し、対馬国の本領を安堵されます。
 李氏朝鮮服属の命令を受けた宗氏は、小西行長・島井宗室らと交渉にあたりますが、秀吉の無理難題もあり交渉は進まず、 結果的に李氏朝鮮の服属に失敗し、秀吉の朝鮮出兵を決断させることになります。
 開戦後は半島侵攻の中継地となり、山城が築かれています。
 終戦後は李氏朝鮮との国交再開に尽力し、国交再開後の対馬藩は朝鮮通信使の先導役を勤め、釜山市に倭館を置き交易を行いました。

 鎌倉時代の壱岐国守護は対馬国と同じく武藤氏(少弐氏)が補任され、南北朝期には宗像大社の大宮司宗像氏俊が壱岐国守護となりました。
 応安2年(1369)肥前松浦党が進出し、盟主的存在の佐志氏を中心に鴨志・呼子・塩津留・志佐の諸氏が占拠しました。 佐志氏は守護所を築き、壱岐守護を自称しています。
 一時期、九州探題今川氏が壱岐守護となりますが、文明4年(1472)上松浦党の首領波多泰が壱岐へ侵攻します。 佐志氏ら壱岐の諸氏は波多氏に対抗しましたが敗れ、波多氏は壱岐守護を自称し壱岐国を制圧しました。
戦国大名に成長した松浦隆信は、元亀2年(1571)壱岐へ侵攻し、波多氏に代わり壱岐国を征服しました。
 豊臣秀吉の九州征伐後、壱岐国は松浦氏領と確定し、明治維新を迎えています。

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長崎県の名字
 戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。
以下は長崎県発祥の名字です。この苗字であれば比較的ルーツを探しやすいと思われます。

 肥前国では嵯峨源氏の末裔を中心とする武士団松浦党が勢力を張ります。上松浦党(佐賀県唐津市・伊万里市周辺)について「佐賀県のご先祖調べ」でみました。 ここでは下松浦党(長崎県平戸市・松浦市・佐世保市周辺)について記します。
 下松浦党からは戦国大名として松浦半島を統一する松浦隆信が出ます。 この松浦氏は下松浦党の峯披の子孫から平戸を本拠とする平戸氏が興り、後に松浦氏に改名しています。
隆信は宣教師ザビエルの布教活動を許し、平戸はポルトガル交易の中心地として栄えます。隆信は鉄砲などの武器を購入しただけでなく、領内での鉄砲製造に取り組んでいます。 しかし松浦隆信自身はキリスト教信仰を受け入れなかったため、ポルトガル貿易は大村領長崎へ移ることになります。
 豊臣秀吉の九州征伐ではいち早く参陣し所領を安堵され、「関ヶ原の合戦」では大村喜前の助言もあり東軍德川方に付き、所領を安堵されています。以来、明治維新まで平戸藩主として存続します。
 下松浦党・・・伊万里・河原・久木島・城・久保田・山代・楠久・八並・船原・有田・広瀬・吉野・ 鷹島・大曲・福島・斑島・赤木野・松浦・吉田・庄山・早田・志佐・御厨・中尾・樋口・船木・坂本・小窪・ 松野・佐井・中村・田平・峯・田代・松尾・小佐々・武末・相神浦・相浦・早岐・針尾・佐々・平戸(松浦)・八木・紐差・ 志々岐・中津良・津吉・公文・鮎川・一部・大島・宇久・馬場・玉浦・小値賀・青方・白魚・有河・曽禰・奈摩
 嵯峨源氏以外では、清和源氏武田氏の庶流という宇久氏五島氏や、 清原氏流という青方氏その一族に太田・有川があります。

 松浦党以外の大姓として、高来郡有馬荘に起こる有馬氏があります。有馬氏は藤原純友の末裔あるいは平直澄の子孫といい、有馬貴純の代に高来郡を制圧し、藤津郡・杵島郡へ勢力を広げ、戦国大名として頭角を現します。 さらに有馬晴純の代には、ポルトガルとの交易で最盛期を築き上げました。
 しかし有馬晴信の代になると、肥前龍造寺の攻勢を受け臣従することになりますが、天正12年(1584)に島津氏と通じて「沖田畷の戦い」で龍造寺氏を滅ぼすことに成功しています。 豊臣秀吉の九州征伐が始まると、早々に豊臣秀吉に服属しています。
 有馬晴信はキリシタン大名として知られています。天正10年(1582)には大村純忠と共に天正遣欧少年使節を派遣しています。
 晴信の子有馬直純は家康の養女国姫を正室に迎え、日向延岡藩へ転封となっています。
 彼杵郡大村を本拠に戦国大名として頭角を現す大村氏があります。有馬氏と同じく、藤原純友の末裔あるいは平直澄の子孫といいます。 有馬氏の圧迫を受けた大村氏は、有馬晴純の次男大村純忠を養子に迎えています。
 キリスト教信仰を受け入れた大村純忠は自身も洗礼を受け、領内のキリスト教布教を許可し、最盛期の大村領内のキリスト者数は6万人を越えたといいます。 またポルトガル人のために港として長崎を提供しています。 純忠の布教活動は過激なもので、寺社の破壊、僧侶・神官の殺害、改宗しない領民の殺害や放逐などの事件が相次ぎ、家臣や領民の反発を招きました。
 純忠の子大村喜前は豊臣秀吉に服属し、「関ヶ原の合戦」では東軍德川方に付き所領を安堵されています。以来、明治維新まで大村藩主として存続します。

 各郡には以下の氏族が栄えます。
 彼杵郡からは藤原姓宇都宮氏流の江上氏宮村氏、桓武平氏三浦氏流の深堀氏が出ます。 その他、小佐々氏式見氏彼杵氏田中氏戸町氏大串氏長与氏日宇氏宮原氏があります。
 高来郡からは深江氏神代氏千々石氏などが出ました。

 壱岐国からは肥前鏡社宮司草野氏の一族草野氏、松浦氏流の浜田氏石田氏吉永氏が出ます。 その他、長島・大河野・牛方・鳥海・下野・賀世井田・内野・久家・七種・隈・佐野・岩谷などの諸氏があります。

 対馬国からは対馬国守護となる宗氏が出ます。その一族は以下の通りです。
 佐須・長田・志賀・大浦・比田勝・園田・佐護・大石・久須・長野・大江・嶋本・瀬戸・川本・仁田・中山・松村・木寺・ 峰・吉田・波田野・仁位・岡村・佐々木・久和・内山・川上・横松・一宮・長瀬・井田・三山・西山・小森
 宗氏の家臣としては、梅野・黒川・立石・饗庭・島屋・津原・津江・早田・篠栗・古茂野の諸氏があります。

 長崎県の苗字ベスト20位は以下の通りです。
1山口 2田中 3中村 4松尾 5松本 6吉田 7山下 8森 9山本 10前田
11山田 12宮崎 13山崎 14福田 15池田 16林田 17岩永 18佐藤 19中島 20荒木

西日本に多い苗字がランクインしていますが、佐賀県とよく似た順位です。「田」がつく苗字も多く、稲作文化の先進地であったことを伺わせます。


江戸時代の長崎県
 江戸時代の長崎県には以下の諸藩の他に、佐賀藩佐賀藩家老(諫早陣屋)交代寄合五島家(富江陣屋)の領地地や幕府領(長崎)がありました。
藩名 城下町 主な藩主の変遷
島原藩 島原市 深溝松平氏
大村藩 大村市 大村氏
平戸藩 平戸市 松浦氏
平戸新田藩(平戸藩支藩) 平戸市 松浦氏
福江藩(五島藩) 五島市 五島氏
対馬府中藩(厳原藩) 対馬市 宗氏
代官・奉行 陣屋地 管轄地
幕府領
長崎奉行
長崎市 遠国奉行の長崎奉行が松浦郡5村・彼杵郡6村・高来郡5村

 対馬府中藩の藩主宗氏、12世紀頃に対馬国の在庁官人がルーツとされ、守護大名、戦国大名、近世大名として改易もなく明治維新を迎えた稀有な藩の一つです。
 平戸藩の藩主松浦氏、大村藩の藩主大村氏、福江藩(五島藩)の藩主五島氏(宇久氏)も、 室町戦国期から地域に影響を及ぼした戦国領主でした。
 一方島原藩には「島原の乱」以降は譜代大名が入封しています。当地域の監視役といえます。

江戸時代の長崎支配
 江戸時代の長崎市中の支配をみてみます。
 長崎の民政は長崎奉行配下の長崎地役人によって行われました。 長崎地役人は、長崎貿易および民政のため、町人から選ばれた役人をいい、その職種は200以上もありました。
 長崎行政のトップは町年寄です。高木・高島・後藤・薬師寺・福田・久松の諸家が勤めました。 町年寄の下で、実際に各町を支配したのが乙名(おとな)です。その補佐役に組頭日行使がいます。
 江戸時代の長崎には、西国の14藩が蔵屋敷を置き、長崎聞役という役職を置いています。 長崎での情報収集・貿易品の調達・諸藩との情報交換や長崎奉行との折衝を勤めます。
 聞役には長崎に常駐する定詰(6藩)と、オランダ船が滞在する5月から9月の間だけ詰める夏詰(8藩)がありました。

長崎県の家紋
 長崎県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典 西日本編』によると、長崎県の家紋ベスト10は次の通りです。
1位 片喰 2位 鷹の羽 3位 木瓜 4位 梅鉢 5位 橘
6位 菱・花菱 7位 目結 8位 五つ瓜 9位 桐 10位 藤

 日本の十大家紋と比べると、蔦紋、沢瀉紋、柏紋がランク外となり、かわりに菱紋、目結紋、梅鉢紋がランク入りしています。 家紋上位は隣の佐賀県と似通っています。梅鉢紋は菅原道真を祀る太宰府天満宮の神紋、天満宮信仰の影響もあると思われます。
 戦国大名・豪族の家紋をみてみましょう。
松浦氏(嵯峨源氏)が三つ星紋、松浦党では志佐氏・伊万里氏・鶴田氏・山代氏・有田氏・有浦氏が三つ星紋、波多氏が二つ引両に三つ星紋を使用しています。
大村氏(藤原北家純友流)が五瓜に剣唐花、有馬氏(藤原北家純友流)が五瓜に唐花
深堀氏(桓武平氏三浦氏流)が丸に三つ引両紋、安富氏(清和源氏頼光流)が竹笹紋、長崎氏(桓武平氏資盛流)が五瓜に唐花紋
青方氏(藤原氏流)が三つ星紋、宇久(五島)氏(清和源氏武田氏流)が丸に花菱紋
宗氏(桓武平氏知盛流)が桓武平氏知盛流紋です。

長崎県の寺院
 長崎県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、宗派別の割合は以下の通りです。
  長崎・佐世保・島原 壱岐・対馬・五島
天台宗 1% 4%
真言宗 19% 12%
曹洞宗 15% 47%
臨済宗 4% 17%
浄土宗 10% 6%
浄土真宗 33% 8%
日蓮宗 13% 2%
その他 5% 2%
 長崎県を壱岐・対馬・五島の島嶼部とそれ以外に分けてみると、島嶼部は禅宗系が多いのに対して真宗が少ない傾向にあります。
 それ以外は、佐賀県とおなじく浄土真宗が1位です。
 日蓮宗は大村藩主大村喜前が日蓮宗の帰依して以降、大村藩領では浄土真宗に次いで多い宗派になっています。長崎県内でも1割を超えて他地域に比べると多いです。

長崎県の神社
 肥前国一之宮は「佐賀県のご先祖調べ」を参照してください。
 壱岐国一之宮は天手長男(あめのたながお)神社です。
 主祭神は、天照大神と須佐之男命の誓約の際に生まれた天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、 天照大神を天岩戸から引きずり出した天手力男命(あめのたぢからおのみこと)、 天岩戸の前で踊った天鈿女命(あめのうずめのみこと)です。
 弘仁2年(811)の創建と伝えます。

 対馬国一之宮は海神(かいじん)神社です。
 主祭神は豊玉姫命(とよたまひめのみこと)です。
 神功皇后が三韓征伐からの帰途、新羅を鎮めた証として旗八流を上県郡峰町に納めたことに由来するといいます。

長崎県の紳士録・人名録
 国立国会図書館のデジタルコレクションにある紳士録・人名録を一部紹介します。
『日本全国商工人名録[明治25年版]』日本全国商工人名録 明治25年(1892)  職種別と商号
『長崎商工人名録』名古屋商業会議所 明治42年(1909)  職種別と商号・所在地
 『大日本篤農家名鑑 [第1冊]明治43年5月』大日本篤農家名鑑編纂所 明治43年(1910)  村名
『日本紳士録』交詢社編 大正10年(1921) 職業と所在地と税額
※姓氏の出自や由緒には諸説あります。このサイトではすべてを網羅できておりません。 参考の一つにしてください。
 また出自や由緒、来歴についての質問は受けかねます。ご了承ください。


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