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大村藩家臣のご先祖調べ

 藩主大村氏は、肥前国彼杵郡を本拠とした戦国大名で、大村純忠は日本最初のキリシタン大名として知られています。 開港した長崎をイエズス会へ寄進し、ローマ教皇に少年使節を派遣しています。
 天正15年(1587)豊臣秀吉による九州平定の際、長子大村喜前を従軍させ、「関ヶ原の戦い」では東軍徳川方に属し、大村喜前は初代藩主となりました。  戦国以来の家臣が多く残され、また大村城下以外の郷村に居住する家臣も多く、幕末期においても約2/3は各郷村に居住していました。
 幕藩体制となり、大村氏の恩恵を与えて来た長崎は幕府直轄領となり、多くの家臣を抱える大村藩の財政窮乏は深刻でした。 そこで戦国以来、大村庶家一門の広い知行地を強制的に没収・削減しました。これら庶家一門は強い影響力があり、藩主の絶対的権力を確立して、藩政を安定化させるためにも「御一門払い」は必要でした。
 明暦3年(1657)領内で多くの隠れキリシタンが摘発されました。大村の地は、領主大村純忠をはじめ重臣たちが洗礼を受け、一気にキリスト教が広まり、領内各地に教会が建設されていました。 しかし秀吉の「バテレン追放令」や江戸幕府の禁教令が出された後は、大村領内ではキリスト教に厳しい弾圧を加えていました。その最中におこった大村藩存亡の危機となる重大事件でした。 藩は幕府にすぐさま即座に事件を報告し、摘発されたキリシタンを厳しく処罰しました。
 事件後、領民への禁教の徹底と檀家制度の強化とともに、郷村の家臣からもキリスト教に入信しない起請文を出させ、キリシタン遺物や墓碑などを全て破却させ、絵踏が再開したといいます。 とくに殉教者の子孫は生涯監視されることとなりました。
 大村藩は、地勢的に稲作には向かないため、薩摩藩と同様にサツマイモの栽培に力を入れ、これを日常食としました。これが功を奏して大村藩は石高以上に食糧事情が良かったといわれています。
 幕末期の大村藩は、他藩と同じく佐幕派と尊王派が激しく対立していました。元治年間に尊王派の渡辺清や針尾寿納らが主導権を握ると、藩政改革を行ない、西洋式の兵制を導入しました。 この教練は藩主大村純熈も度々列席したといいます。
 慶応3年(1867)、この状況に不満を強くする佐幕派は、針尾寿納らを襲撃し、死者も出ます。この事態を重くみた大村純熈は、犯行グループを摘発し、関係した一門重臣は切腹となりました。
 この事件以降、大村藩は「尊王倒幕」で藩論が統一され、薩摩藩・長州藩らと共に倒幕の中枢藩の一つとして活躍し、「戊辰戦争」では東海道征討軍の先鋒隊をつとめ。東北地方まで転戦しました。 これらの功績により、明治新政府より小藩としては破格の賞典禄3万石を与えられました。

大村藩
  藩庁 玖島城(大村市)  
  江戸屋敷 上屋敷(千代田区永田町:国立国会図書館東京本館あたり)
 中屋敷(新宿区北山伏町) 
下屋敷(港区白金台:東京大学医科学研究所附属病院あたり)
 
  石高(表高) 2万7千石
  江戸城控間 柳間
  藩校 五教館 寛文10年設立
  格付け 城主
  爵位 伯爵

大村藩の歴代藩主
大村氏 家紋:大村瓜
本姓:藤原氏? 桓武平氏?
墓所:日蓮宗本経寺
 (大村市古町)
代数 氏名 官位 在職
大村喜前
(よしあき)
従五位下・丹後守 慶長5年(1600) ~
元和元年(1615)
大村純頼
(すみより)
従五位下・民部大輔 元和元年(1615) ~
元和5年(1619)
大村純信
(すみのぶ)
従五位下・丹後守 元和6年(1620) ~
慶安3年(1650)
大村純長
(すみなが)
従五位下・因幡守 慶安4年(1651) ~
宝永3年(1706)
大村純尹
(すみまさ)
従五位下・筑後守 宝永3年(1706) ~
正徳2年(1712)
大村純庸
(すみつね)
従五位下・伊勢守 正徳2年(1712)~
享保12年(1727)
大村純富
(すみひさ)
従五位下・河内守 享保12年(1727) ~
寛延元年(1748)
大村純保
(すみもり)
従五位下・弾正少弼 寛延元年(1748) ~
宝暦10年(1760)
大村純鎮
(すみやす)
従五位下・信濃守 宝暦11年(1761) ~
享和3年(1803)
10 大村純昌
(すみよし)
従五位下・上総介
丹後守
享和3年(1803) ~
天保7年(1836)
11 大村純顕
(すみあき)
従五位下・丹後守 天保7年(1836) ~
弘化4年(1847)
12 大村純熈
(すみひろ)
従五位下・丹後守 弘化4年(1847) ~
明治4年(1871)

大村藩の家臣団
 大村藩の家臣団をみてみます。
 慶長12年(1607)の「御一門払い」以降、長崎(大村)・福田・針尾・渋江・北条・朝長・冨永の諸氏が藩中枢を預かる重臣層となります。
 大村藩の身分格式は、家老城代馬廻城下大給村大給小給間組小給足軽職人に大別されます。
 戦時に際しては、家老の下に物頭をおき、その下に各藩士が所属しました。足軽組は足軽大将(物頭)が支配し、足軽から選ばれた小頭がまとめました。

 前述のように、大村藩では大村城下以外の郷村に居住する家臣も多くいました。幕末の安政期で郷村に居住する家臣は65%ほどでした。
 大村藩では鉄砲足軽の在地配置と、新田開発に在地給人を起用により、郷村居住の武士が増えていきました。 新田開発には藩士の二男三男が積極的にあたり、開発高によって高60石に達すると馬廻、高10以上は村大給、高10未満は村小給に取り立てられました。
 そのため開発高によっては上位の家臣に昇進することもあり得る大村藩においては、中級家臣以下の身分秩序は固定的なものではなく、激しい身分移動がありました。

      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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大村藩の家臣
『新撰士系録』より藩士家名
あ) 相川・青木・浅井・浅川・朝川・浅田・芦塚・麻生・天野・荒木・有川・有田
い) 飯笹・生田・池上・池田・井崎・石川・石出・石橋・石丸・井石・井田・井手・井上・井福・井本・井村・ 磯・磯野・磯辺・板坂・板崎・一瀬・伊東・稲尾・稲垣・稲吉・猪股・今井・今里・今富・今道・今村・岩崎・岩永・岩松・磐前
う) 上田・上野・鵜飼・宇喜多・宇部・牛嶋・牛津・内山・内海・梅沢・梅田・浦・浦上・浦田・浦川・浦山・嬉野
え) 江頭・江藤・江東・江上・恵美酒丸
お) 大浦・大江・大串・大島・大角・大隅・太田・大野・大村・岡崎・緒方・小方・小川・岡村・雄城・沖津・尾崎・ 尾上・尾道・越智・折敷瀬

か) 掛橋・筧・笠寺・笠坊・花山・梶原・加瀬・加田・片峰・片山・加藤・香取・金森・金子・蒲池・神原・神近・ 亀山・烏山・川勝・河上・川口・川崎・川島・川尻・川添・川津・川原
き) 喜々津・菊地・北・喜多・北川・北川原・北野・北村・木戸・吉良
く) 空閑・楠本・久保田・隈・熊野・黑板・黒崎
こ) 河野・神浦・甲野・郡・古賀・小佐々・小代・小玉・五反田・後藤・小鳥井・小林・小宮・小柳・近藤

さ) 斎藤・堺・酒井・阪田・坂本・佐々木・指方・貞松・佐藤・沢島・沢勢・澤田・沢山
し) 塩見・執行・志多・品川・柴江・渋江・嶋長・庄・庄司・白似田・城戸
す) 末岡・末松・末村・杦本・鈴川・鈴木・鈴田・須田・角野・須山
せ) 瀬戸口
そ) 相田・薗田・染石

た) 高以良・高尾・高木・高嶋・高瀬・高田・高谷・高月・高峰・高村・田川・滝口・滝野・竹下・岳野・武部・ 竹山・田古里・田崎・田島・田添・立木・田中・伊達・田原・田平・樽美・丹波
ち) 千々岩・千葉
つ) 津川・築地・辻・土橋・土本・土屋・筒口・筒井
て) 寺井・出口・寺田
と) 遠岳・渡海・時・戸田・土肥・戸町・冨井・富澤・富永・富野・友重・朝長・豊崎・豊永・豊野・豊村

な) 中井・永井・長井・長石・永石・中尾・長岡・中倉・長崎・長澤・中島・長嶋・中瀬・永田・長田・永野・ 中橋・中村・中山・長與・奈良・成瀬・南畝
に) 西・西川・西島・西村・西山
ね) 根岸・音琴
の) 野澤・野瀬・野田・後瀬・野間・野村・野本

は) 萩尾・間・土師・橋口・橋爪・橋本・長谷・波多・初瀬・服部・馬場・濱田・林・林田・早瀬・原・原口・ 原田・針尾
ひ) 日宇・東・疋田・樋口・久松・平岩・平子・平野・廣瀬・廣田
ふ) 深澤・深山・福井・福重・福田・復本・藤崎・藤田・藤本・淵・淵井・淵山・古川・古重・古館
ほ) 北條・堀田・堀・堀池・堀内・堀江・堀尾・本田・本土・本間

ま) 前川・蒔田・牧野・真崎・正野・待山・町山・松浦・松尾・松川・松下・松添・松田・松永・松野・松原・ 松林・松本・丸田
み) 御厨・水谷・溝上・溝口・溝道・満井・三岳・南・峰・三根・峯原・宮内・宮崎・宮田・宮原・宮村・三好
む) 武藤・宗代・村井・村尾・村岡・村上・村川・村嶋・村瀬・村田・村津・村野・村部・村山
も) 毛利・本川・本島・森・本山・森・森田・森林・森山・諸熊

や) 八木・八木原・安田・矢次・柳川・柳原・矢野・山岡・山川・山際・山口・山崎・山下・山城・山田・山名・ 山道・山元・山脇
ゆ) 結城・湯川
よ) 横瀬・横山・芳陵・吉川・吉崎・吉野・吉田・吉村

わ) 和田・渡木・渡邊

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