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水戸藩家臣のご先祖調べ

 慶長5年(1600)「関ヶ原合戦」で常陸の戦国大名佐竹義宣は静観し、東軍徳川方に加担しませんでした。 これにより名門佐竹氏は慶長7年(1602)に出羽久保田藩21万石に転封となりました。
 代わって下総佐倉藩より徳川家康の五男武田信吉が入りましたが、翌慶長8年(1603)21歳の若さで病死してしまいます。 次に家康の十男長福丸(徳川頼宣 当時2歳)が水戸25万石に入封しました。しかし頼宣は駿府藩50万石、そして和歌山藩55万石に転封となりました。
 頼宣に代わって家康の十一男鶴千代(徳川頼房 当時6歳)が下総下妻藩より入封しました。 徳川御三家のひとつ水戸徳川家の誕生です。水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府の藩であり、将軍目代の役目を持っていたといいます。

 2代藩主は「水戸黄門」で知られる徳川光圀です。光圀は『大日本史』の編纂をはじめ、古典研究や文化財保存など文化事業に注力し、将軍徳川綱吉の治世では幕政にも影響力を持ちました。 光圀の学芸振興は、水戸藩に尊王攘夷思想の学風をもたらし、のちに「水戸学」と呼ばれるようになります。この思想は幕末の尊皇攘夷運動に強い影響を与えました。
 一方で、『大日本史』編纂をはじめ文化事業に多額の藩費をつぎ込み、そもそも厳しい藩財政は悪化し、水戸藩困窮の要因になりました。
 黄門漫遊記は後世の創作で、『大日本史』編纂の資料収集のために諸国に家臣を派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などからイメージされたものと考えられています。

 9代藩主徳川斉昭は幼少期から「水戸学」の尊王攘夷思想の影響を受け、開国に反対していましたが、西洋の武器や文物に強い関心を示し、開国容認の立場であったともいいます。 藩政改革にも尽力し、藩校弘道館を設立し、有能な人材の登用に努め、藤田東湖・会沢正志斎・武田耕雲斎などを用いて藩政改革を実施しました。 水戸藩の藩政改革は、幕府の「天保の改革」に影響を与えたといわれています。
 嘉永6年(1853)の黒船来航の際には、ペリー暗殺も含めた強硬な攘夷論を主張し、江戸湾防備のため大砲・弾薬・洋式軍艦「旭日丸」を幕府に提供しています。
 斉昭は幕政参与の立場にありましたが、開国派の彦根藩主井伊直弼と激しく対立し、将軍継嗣問題でも紀州藩主徳川慶福(のちの徳川家茂)を推す井伊派(南紀派)に対抗し、 自身の実子である一橋家徳川慶喜を擁立しています。
 しかしこの権力闘争に敗れ、「日米修好通商条約」の調印、慶福(のちの家茂)の14代将軍の就封を許すことになりました。さらに安政6年(1859)永蟄居を命じられ、事実上は政治生命を絶たれることとなりました。

 翌万延元年(1860)8月、徳川斉昭が水戸で急逝し、長男徳川慶篤が10代藩主となります。実弟は最後の将軍徳川慶喜です。
斉昭歿後、水戸藩は統制を失い、藩士による桜田門外の変天狗党の乱を招くとともに、財政難を克服することができず、幕末政局で主導権を握ることができませんでした。

水戸藩
  藩庁 水戸城(水戸市)  
  江戸屋敷 上屋敷(文京区後楽・春日) 
中屋敷(文京区本郷・弥生) 
下屋敷(墨田区向島)
 
  石高(表高) 35万石
  江戸城控間 大廊下
  藩校 弘道館 安政4年設立
  格付け 御三家
  爵位 候爵

水戸藩徳川家の歴代藩主
水戸徳川家 家紋:丸に三つ葉葵
出自:称清和源氏
墓所:瑞龍山
 (常陸太田市瑞龍町)
代数 氏名 官位 在職
徳川頼房
(よりふさ)
正三位・
権中納言
慶長14年(1609) ~
寛文元年(1661)
徳川光圀
(みつくに)
従三位・
権中納言
寛文元年(1661) ~
元禄3年(1690)
徳川綱條
(つなえだ)
正三位・
権中納言
元禄3年(1690) ~
享保3年(1718)
徳川宗堯
(むねたか)
従三位・
左近衛権中将
享保3年(1718) ~
享保15年(1730)
徳川宗翰
(むねもと)
従三位・
左近衛権中将
享保15年(1730) ~
明和3年(1766)
徳川治保
(はるもり)
従三位・
権中納言
明和3年(1766) ~
文化2年(1805)
徳川治紀
(はるとし)
従三位・
右近衛権中将
文化2年(1805) ~
文化13年(1816)
徳川斉脩
(なりのぶ)
従三位・
権中納言
文化13年(1816) ~
文政12年(1829)
徳川斉昭
(なりあき)
従三位・
権中納言
文政12年(1829) ~
弘化元年(1844)
10 徳川慶篤
(よしあつ)
弘化元年(1844) ~
慶応4年(1868)
11 徳川昭武
(あきたけ)
従一位 慶応4年(1868) ~
明治4年(1871)

水戸藩の家臣団
 藩の土台となる家臣団は、寛永期まで召抱えられます。慶長14年(1609)徳川頼房の水戸移封に際して、甲斐武田氏の旧臣、武田信吉の旧臣、小田原北條氏の旧臣などが附属されました。 附家老中山信吉は小田原北條氏の旧臣です。 元和期になると、安房里見氏・出羽最上氏・土佐長宗我部氏・会津蒲生氏など戦国大名の旧臣や、水戸領内に散在する土豪や旧主佐竹氏の遺臣も召抱えられました。 さらに改易となった徳川一門の旧臣も大量に召抱えています。越後高田城主松平忠輝や駿河大納言忠直の家臣たちです。 寛永期になると、切米取の小禄家臣の登用が増え、家臣団編成がほぼ完成します。
 徳川光圀の襲封後に作成された寛文年間の分限帳には、1069人の諸士が記されています。分限帳に記されていない手代や同心・足軽など下級武士を合わせると、水戸藩の家臣総数は3000人を優に超えたといいます。
 水戸藩の家臣団構成は、御三家のなかで500石以上の知行高を持つ上士・中士級の家臣が少なく、総石高に比較して家臣総数が多いといわれています。 初期の水戸家臣団は、急速に家臣数を増やした、寄せ集めの集団であったため、藩主一族が重臣層を占め、藩政をまとめていました。
 水戸藩では重臣や下級武士の身分に関わらず、中途で廃絶した家が少なく、絶家率は全登用者の約40%といいます。その理由は、法令違反や職務怠慢などの処罰による廃絶や無嗣断絶などです。 水戸藩は、幕府や他の御三家より厳しい対応でした。

 水戸藩の家臣団は、大きくは上士(1000石程度、家老・物頭級)、中士(500石程度、諸奉行級)、平士(200石程度、番士級)、 下士(切米取)、に分けることができます。
 藩政を統括する家老は、幕府から附属された家柄の中山氏をはじめ、山野辺・鈴木・太田・宇都宮・岡崎・白井・朝比奈などが勤めました。
 平常の政務を預かるものは老中(執政・御用達)です。2人体制で、寛政期から年寄衆と呼ばれました。老中を補佐して政務を執行するのが奉行になります。
奉行の下に庶務連絡にあたる用人が置かれました。
 水戸藩主は定府であったため、家老以下重職の多くは江戸在住で、政務の決裁は江戸藩邸で行われました。
 天保以降、城内儀式での格式が定まります。
  布衣格(布衣を着用)…家老・老中・奉行・番頭・用人など
  素袍格(素袍を着用)…小姓頭・諸奉行・目付・諸番士など
  麻上下格…徒士・台所頭・勘定吟味役・諸組の士など、があります。

      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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水戸藩の家臣
『水府分限帳』(寛文8年)より藩士家名
あ) 朝比奈・赤林・有賀・芦川・芦沢・天野・跡部・朝倉・秋山・雨宮・荒川・阿部・安食・新家・鮎沢・ 秋穂・秋田・荒島・青木・天方・青山・浅田・浅秀・浅井・相川・浅羽
い) 伊藤・市川・石野・飯田・生熊・生駒・池上・井尾木・飯尾・入手・井田・岩井・岩木・猪飼・岩本・ 岩渕・石川・今井・板垣・池原・飯塚・今西・池泉・池田・礒部・石上・石神・稲垣・岩崎・稲田・猪子・井出
う) 宇都宮・上杉・鵜殿・上月・海野・宇佐美・内村・鵜山・宇野・潮田・馬岡
え) 榎本
お) 太田・岡崎・大竹・尾崎・大森・興津・忍穂・大森・小川・岡本・大久保・大関・小笠原・岡田・大井田・ 大井・大野・岡見・小幡・大嶋・小野・大石・大河内・大屋・乙部・岡部・大場・小田・小原・大竹・岡島・越智・岡村・ 大嶺・奥山・大橋・大瀧・小野崎・帯金・笈川・園城寺・大和田・大喜多・大宮・太田和

か) 川添・筧・河方・茅根・梶川・加藤・蔭山・河村・加治・川澄・笠井・河西・香取・勝・川村・影嶋・川又・ 神田・片岡・神戸・川窪・川方・片山・梶・狩野・蕪木・梶間・梶木・陰山・河原・金沢・加納・川野・川崎・金子・亀田・ 神山・川月・兼松・河合
き) 木股・北河原・木内・城所・吉郷・岸・菊地
く) 栗田・久世・久木・楠・久貝・桑原・工藤・久下・軍司・暮西・熊田・畔柳・窪寺・葛岡
け) 剣持
こ) 駒井・近藤・小柳・小池・小林・小勝・小湊・小松・小柳津・小山・児玉・国分・後藤・小瀧・小宅・小平・高

さ) 酒井・雑賀・佐野・佐藤・桜井・西郷・佐々木・里見・酒出・斎藤・佐々・坂本・佐枝・笹本・榊原・笹沼・ 桜沢・佐川
し) 白井・庄・塩津・塩谷・嶋村・篠田・四宮・清水・下妻・下條・白石・白戸
す) 鈴木・杉山・杉浦・杉田
せ) 関口・千賀・瀬尾・瀬田・関・世良田・千本
そ) 反町・曽根

た) 谷・田村・高岡・田中・高尾・立川・高山・多賀・田代・高原・竹貫・田伏・武田・田嶋・立田・立花・多田・ 高屋・竹村・大宗
ち) 千葉
つ) 辻・都筑・妻木・津田・筒井・土屋
て) 寺田・手塚
と) 鳥居・富永・豊嶋・土井・戸祭・遠山・戸田・富田・外山・東條・戸川・土岐・飛田

な) 中山・内藤・中川・中沼・長瀬・中野・中沢・中村・永田・南部・中根沼・長尾・鳴海・長山・中條
に) 韮沢・丹羽
ぬ) 額田・沼・沼間
ね) 根本・根来
の) 野々山・野村・野沢・能勢・野田・信田・野一色・延生

は) 萩・林・羽太・馬場・垪和・萩原・服部・幡鎌・半村・伴・八戸木・蓮沼・浜口・畠山・原・原田・塙・橋詰・ 早川・濱野
ひ) 肥田・彦坂・久方・日野・平賀・平山・人見・廣木・平戸・檜垣・平尾・東野・広瀬
ふ) 藤田・藤川・藤沢・福原・藤・藤井・布施・船木・古沢・深沢・福王
へ) 逸見・戸次
ほ) 穂坂・本間・堀口・北条・堀田

ま) 松平・真木・真野・万沢・松田・松下・松岡・松井・正木・松延・松本・牧原・牧・前木・松葉・増谷・増山・ 前野・増子
み) 三木・三浦・水野・三宅・三吉・溝口・宮崎・水谷・宮田・三好・箕川・水兼・宮川・宮月・水沢・三橋
む) 武藤・向坂・村嶋・村上・向井・村田・村越
も) 望月・師岡・門奈・森・毛利・盛岡・守屋・森川

や) 山野辺・安松・山県・矢野・山内・山国・山田・山口・屋代・野内・柳瀬・矢部・山崎・矢次・山本・山下・ 谷田部・屋野
ゆ) 弓削・油井
よ) 横山・吉田・吉野・横谷・横手・横井・吉弘・横屋

ろ) 六郷・
わ) 渡辺・渡井・若林・和田・鷲尾・若菜

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