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紀州藩家臣のご先祖調べ

 慶長5年(1600)「関ヶ原合戦」の勲功により、浅野幸長紀州藩を与えられましたが、元和5年(1619)福島正則の改易にともない、広島藩へ移封となります。
 代わって家康の十男徳川頼宣が55万5千石で入封し、ここに親藩の紀州藩が立藩しました。この時、頼宣は18歳でした。
 幕府から付家老として、遠江国掛川城主であった安藤直次と遠江国浜松城主の水野重央が付けられ、安藤氏には田辺城(田辺市)と3万8千石の所領が与えら、水野氏には新宮城(新宮市)に3万5千石の所領が与えられました。 紀州藩は、伊勢国内にも17万9千石の所領があり、伊勢田丸領には久野宗成が城代として入り、伊勢松坂領には長野清定らが輪番で代官を勤めました。
 寛文10年(1670)徳川頼宣の三男松平頼純が伊予西条藩3万石で入封します。紀州藩の支藩で、紀州藩主家が絶えた場合に備えました。

 5代藩主徳川吉宗は将軍家を相続して8代将軍に就任します。この時、紀州藩士より40名余りを選抜し、側役として江戸に随行させています。この40名は吉宗の寵臣ではなく、その日当番だった者をそのまま連れて来たとの逸話があります。
 吉宗に代わって6代紀州藩主となったのは支藩の伊予西条藩2代藩主徳川宗直でした。吉宗の従弟になります。

 13代藩主徳川慶福は将軍家を相続して14代将軍徳川家茂となっています。
 慶福に代わって14代紀州藩主となったのは支藩の伊予西条藩9代藩主松平頼学の六男松平頼久(のちに徳川茂承)でした。

 「第二次長州征伐」では藩主徳川茂承は先鋒総督に任命され、幕府方の中心にありました。「鳥羽・伏見の戦い」で幕府軍が大敗すると、新政府への恭順を決定し、旧幕府軍の残党を和歌山から立ち退かせました。 しかし紀州藩への疑念は晴れず、使者を立て弁明するとともに、新政府の要請に応じて新政府軍の東海道鎮撫の先鋒に藩兵を出陣させています。 その後、上野戦争、会津若松などへ出動しています。

紀州藩
  藩庁 和歌山城(和歌山市)  
  江戸屋敷 上屋敷(麹町屋敷:千代田区紀尾井町) 
中屋敷(赤坂屋敷:港区元赤坂) 
下屋敷(千駄ヶ谷屋敷:渋谷区千駄ヶ谷1丁目)
 
  石高(表高) 55万5千石
  江戸城控間 大廊下
  藩校 学習館 寛政3年設立
  格付け 御三家
  爵位 候爵

紀州藩徳川家の歴代藩主
紀州徳川家 家紋:丸に三つ葉葵
出自:称清和源氏
菩提寺:天台宗長保寺
 (海南市下津町上)
代数 氏名 官位 在職
徳川頼宣
(よりのぶ)
従二位・
行権大納言
元和5年(1619) ~
寛文7年(1667)
徳川光貞
(みつさだ)
従二位・
行権大納言
寛文7年(1667) ~
元禄11年(1698)
徳川綱教
(つなのり)
従三位・
権中納言
元禄11年(1698) ~
宝永2年(1705)
徳川頼職
(よりもと)
従四位下・
行左近衛権少将
宝永2年(1705)
徳川吉宗
(よしむね)
従三位・
権中納言
宝永2年(1705) ~
正徳6年(1716)
徳川宗直
(むねなお)
従ニ位・
行権大納言
正徳6年(1716) ~
宝暦7年(1757)
徳川宗将
(むねのぶ)
従三位・
権中納言
宝暦7年(1757) ~
明和2年(1765)
徳川重倫
(しげのり)
従三位・
権中納言
明和2年(1765) ~
安永4年(1775)
徳川治貞
(はるさだ)
従三位・
権中納言
安永4年(1775) ~
天明9年(1789)
10 徳川治宝
(はるとみ)
従一位・
行大納言
天明9年(1789) ~
文政7年(1824)
11 徳川斉順
(なりゆき)
正二位・
行権大納言
文政7年(1824) ~
弘化3年(1846)
12 徳川斉彊
(なりかつ)
従二位・
行大納言
弘化3年(1846) ~
嘉永2年(1849)
13 徳川慶福
(よしとみ)
正二位・
行権大納言
嘉永2年(1849) ~
安政5年(1858)
14 徳川茂承
(もちつぐ)
正三位・
行権中納言
安政5年(1858) ~
明治2年(1869)

紀州藩の家臣団
 入国当初の家臣団には、先に見た附家老など幕府より附属された者や、駿府時代までに召抱えた者が中心で、その数2500人ほどでした。 最上位の年寄には、安藤家・水野家・三浦家・久野家・彦坂家があり、大番頭には山本家・松平家・蔭山家・渋谷家・菅沼家・戸田家・小笠原家がみえます。
 寛政期の改革により紀州藩士の格式・座席順、それ応じての役職が定まりました。  格式には御目見以上の重役・御役人・布衣以上・布衣以下頭役・虎之間席平士・中之間席平士、御目見以下(肩衣御免から勘定支配小普請まで)、伊賀以下などがあります。
 藩の職制は他藩と同じく、番方(軍事)中心の簡素な組織から、役方(行政)の職務が整備され、複雑になっていきます。 寛政年間の御役順には371の職名があり、そのうち御目見得以上は217,御目見得以下は78,伊賀以下は53、役順外は23となっています。

 上級武士は地方知行となっていました。これを知行取といいます。紀州藩の知行取は、給地100石以上の者で「知行目録」が与えられ、直支配することを許されていました。村の給人庄屋が実務を担当しました。
知行地を与えられず、藩庫から支給されるものを切米取といいます。現物で給与するものです。知行100石は切米40石に相当します。

 紀州では戦国大名が成長せず、小勢力の土豪らにより分割支配されていました。 織田信長・豊臣秀吉そして浅野氏によって大規模な反抗勢力は解体されましたが、いまだ農村には旧土豪の一族が残存していました。 彼らは広大な土地を所有し、被官や下男を抱え、刀鉄砲などの武具を所持していました。
 紀州藩は、地域に影響力を持つ旧土豪を懐柔し藩の統制下に置くために、名字帯刀や藩主への目見を許し、一定の武力所持も許しました。 これは有事の際には彼らの武力を利用しようと考えたからでした。これを地士制度といいます。いわゆる郷士です。
 しかし江戸中期以降は、献金により地士に取り立てられるようになります。
 地士の人数は、元禄14年(1701)に256人(うち伊勢領69人)、天保12年(1841)頃に921人(うち伊勢領381人)と大きく増加しています。

      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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紀州藩の家臣
『和歌山分限帳』(延宝期)より藩士家名
あ) 朝比奈・安藤・渥美・天野・有馬・粟生・阿曽沼・天方・朝倉・芦川・朝岡・芦沢・荒川・浅井・ 青木・赤堀・赤植・荒木・赤見・荒瀬・有賀・明石・赤尾・阿部・有地・浅田・赤沢・浅羽・荒井・相川・赤見・赤田・浅倉・荒瀬
い) 市川・磯・石黒・岩倉・飯嶋・飯塚・伊木・壱岐・井上・伊丹・稲生・石野・池田・岩本・石谷・石和・伊藤・ 居初・飯田・犬塚・稲葉・稲垣・今村・池畑・伊関・稲田・乾・稲川・石田・石河・岩橋・猪飼・石場・石井・井出・磯野・伊与田・ 池端・今泉・井口・井田・石本・岩谷・池谷・稲岡・岩田・岩瀬・池永
う) 海野・上野・上田・浦上・内田・内海・宇治田・宇都・鵜飼
え) 江馬・江見・遠藤
お) 小笠原・大崎・大沢・大久保・落合・奥津・尾崎・大石・岡田・大岡・大井・小山田・岡村・小栗・小野木・大薮・ 大高・忍穗・大嶋・岡山・小川・大須賀・小島・奥野・奥村・大塚・大関・岡見・岡・長田・小崎・岡部・大屋・男山・小田相・ 大田・大村・大河内・大草・奥・大鳥井・大岡山・小関・岡本・荻原・小柳・小浦・大橋・小野田・小野・小曽沼・大野・大川・ 大畑・小幡・奥田・大屋・小畑・小野木

か) 川合・垣屋・神谷・河合・加藤・加納・筧・葛西・金沢・川北・蔭山・金森・片桐・川嶋・鴨居・片岡・片山・ 川上・川名・金田・海福・川村・川合・垣村・可児・香下・金谷・幸田・川井・鏑木・勝・河西・川角・管・神前・神戸・笠原・ 亀田・幸・甲斐・貝原・梶川・河村
き) 木下・北村・木村・木川・岸和田・木梨・岸田・北・祇園・北川・貴志・衣笠
く) 桑山・九鬼・久野・久世・畔田・畔柳・桑嶋・久田・久米・桑原・黒田・黒川・栗元・窪田・功刀・熊倉・草野・楠本
け) 下司
こ) 近藤・小倉・権田・小泉・後藤・小出・小嶋・小林・駒木根・駒井・小池・小池・児玉・小山

さ) 佐野・里見・三田・榊原・斎藤・佐々木・坂部・佐治・佐々・佐藤・佐久間・佐武・札川・佐山・鷺谷・坂口・篠本・ 佐原・佐波・寒川・酒井・崎山・佐倉・財満・坂田・佐伯・三方・佐取・西郷
し) 下条・渋谷・志賀・四宮・芝田・嶋田・下村・嶋崎・柴田・設楽・白井・神野・志村・白下部・清水・塩谷・白樫・ 茂野・芝山・塩屋・猪屋・庄
す) 鈴木・杉田・杉浦・菅沼・末高・角岡・須田・鈴村・角南・須藤・角谷・諏訪・角屋・菅谷
せ) 関口・千本・関・関根・関本・千賀
そ) 曽根・園田・十河・寒川

た) 伊達・丹沢・竹本・高田・田中・田宮・田屋・谷・高井・淡輪・玉川・高岡・高橋・高野・竹森・多羅尾・高科・ 田沼・立石・田代・竹内・武村・高木・高城・高松・田口・多喜・田嶋・竹沢・竹谷・為井・滝・立野・玉野井・武田・巽・田所・ 竹田・竹元・滝川
ち) 筑紫
つ) 津田・妻木・土橋・都築・土屋・堤・露木・常見・土山・柘植
て) 寺西・寺嶋・寺杣・寺田
と) 戸田・鳥井・豊嶋・東・富田・戸塚・鳥居・藤堂・東使・遠山・百々・富永・富岡・豊田・豊瀬・徳田・徳能・泊・土岐・外山

な) 中嶋・永尾・中井・名取・成田・長尾・中川・夏目・内藤・中野・長坂・長野・永谷・永田・成瀬・中村・長沢・ 南磨・波切・七沢・永野・中瀬・長屋・南部・中原・中尾・永嶋・長嶋・長谷・並川・中山・仲
に) 西山・丹羽・西尾・贄・西村・新居・西川
ね) 根岸・根来
の) 野中・野間・野口・野尻・野本・野々山・野沢・野志・野田・野村

は) 原田・長谷川・橋本・半田・花房・蜂屋・早川・伴・浜名・速水・橋爪・早淵・服部・浜田・林・春木・土生・馬場・波多野・原
ひ) 日根野・平塚・彦坂・平井・肥田・平山・広田・人見・広瀬・平瀬・平野・平松・平尾・桧川
ふ) 布施・藤田・古川・福岡・福富・深見・古屋・武津・藤村・船橋・藤本・深津
へ) 別所・別府
ほ) 堀尾・本田・北条・本間・堀内・堀田・細井・堀部・星田・堀辺・本庄

ま) 正木・松平・松下・牧村・牧野・松沢・真鍋・松川・松山・真木・松田・前田・丸井・真宮・真野・的場・松村・丸山・松井・ 松岡・真下・松野・松本・松浦
み) 水野・宮地・三宅・三浦・水嶋・三嶋・宮島・三刀屋・三上・宮川・名井・三倉・三井・三地・三村田・三木・宮井・三枝・ 美濃部・三田・三谷・三雲・三池・水上・水豊・宮崎・三橋・三堀・三田村
む) 村上・村松・向日・武藤・村山・村嶋・村井・村田・向笠・向井・宗方
も) 望月・森・毛利・森川・門名・籾山・森山・茂呂・森田

や) 山本・山名・山下・薮・山口・山林・山田・山高・保田・山中・山野井・矢部・安富・安井・山崎・山路・山川・柳原・山村・ 矢頭・安田・八木・山岸・山吹
ゆ) 遊佐・由比・弓削・雪吹・由布・祐生・弓削多
よ) 吉本・吉見・吉田・四木・吉岡・吉村・横地・横田・横井・吉川・

り)
わ) 和田・渡辺・渡部・若尾・鷲巣・若林・和久田・和佐

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