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山家藩家臣のご先祖調べ

 美濃斎藤氏の家臣であった谷衛好は織田信長、豊臣秀吉に仕えます。 天正7年(1579)播磨三木合戦で谷衛好は討死しますが、初陣であった谷衛友は、その場で父の仇を討ち取り、遺骸を奪い返すという武勲を立てました。
 若くして家督を継いだ谷衛友は、天正10年(1582)頃に丹波国何鹿郡山家村に移封されて、1万6000石余を領知しました。 その後、秀吉の主要な合戦には参陣し、数々の武功を挙げ、秀吉によってその勇敢さを称賛されました。
 「関ケ原の合戦」では、西軍石田方に与し、丹波田辺城(舞鶴市)の攻撃に加わりましたが、密かに田辺城中の細川方と内応し、空砲を撃ったとされます。 戦後、細川氏から報告を受けた徳川家康は、谷衛友の所領を安堵しました。
 「大坂の陣」では、徳川秀忠に従って出陣し、三男衛勝と四男衛政を率いて活躍しました。谷衛友は晩年秀忠の御伽衆となっています。
 谷衛友衛之(上杉領)・衛勝(十倉領)・衛冬(梅迫領)を分家させ、寛永5年(1628)旗本谷領が成立します。
 山家藩は、徳川幕府成立以降谷氏が支配し、そのまま明治維新を迎えています。

山家藩
  藩庁 山家陣屋(綾部市広瀬町)  
  江戸屋敷  
  石高(表高) 1万石
  江戸城控間 柳間
  格付け 陣屋
  爵位 子爵

山家藩の歴代藩主
谷氏 家紋:揚羽蝶紋
本姓:宇多源氏佐々木氏流?
菩提寺:臨済宗覚応寺 (綾部市旭町)
代数 氏名 官位 在職
谷 衛友
(もりとも)
従五位下・
出羽守
慶長5年(1600) ~
寛永4年(1627)
谷 衛政
(もりまさ)
従五位下・
大学頭
寛永5年(1628) ~
寛文2年(1662)
谷 衛広
(もりひろ)
従五位下・
出羽守
寛文2年(1662) ~
元禄2年(1689)
谷 衛憑
(もりより)
従五位下・
播磨守
元禄2年(1689) ~
享保2年(1717)
谷 衛衝
(もりみち)
従五位下・
出羽守
享保2年(1717) ~
宝暦12年(1762)
谷 衛将
(もりまさ)
従五位下・
大学頭
宝暦12年(1762) ~
宝暦14年(1764)
谷 衛秀
(もりひで)
従五位下・
播磨守
宝暦14年(1764) ~
安永9年(1780)
谷 衛量
(もりかず)
従五位下・
播磨守
安永9年(1780) ~
享和元年(1801)
谷 衛萬
(もりたか)
従五位下・
大学頭
享和元年(1801) ~
文化13年(1816)
10 谷 衛弥
(もりみつ)
従五位上・
右京亮
文化13年(1816) ~
文政3年(1820)
11 谷 衛昉
(もりやす)
従五位下・
出羽守
文政3年(1820) ~
弘化2年(1845)
12 谷 衛弼
(もりのり)
従五位下・
播磨守
弘化2年(1845) ~
安政2年(1855)
13 谷 衛滋
(もりしげ)
従五位上・
大膳亮
安政2年(1855) ~
明治4年(1871)

山家藩の家臣団
 幕末期の分限帳によると、知行取が30名、扶持取蔵米取が65名、足軽が16名、士分扱いとされた大庄屋・商人が28名いました。
 最高位の家老の知行高は120石で、大半の中級武士クラスの俸禄です。
 役職としては、御用人・江戸留守居・番当・寺役・御次(見習いか)・代官・山方・番役・郷方・蔵方などがありました。

      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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