お問い合わせをお待ちしております
TEL. 075-922-3041
営業時間 AM10:00 ~ PM21:00
津藩家臣のご先祖調べ
慶長13年(1608)8月、藤堂高虎が伊予今治藩から22万石で入封し藤堂家が治める津藩が成立します。 安濃津藩ともいいます。
藤堂高虎は何度も主君を変えた戦国武将で知られていますが、戦国乱世にあっては珍しいことではありません。
また黒田孝高・加藤清正とともに築城の名人として知られ、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城しています。
徳川家康からも絶大な信任を受け、外様ながら譜代大名並の待遇を受けています。
慶長19年(1614)「大坂の陣」後、伊賀上野筒井氏領などの加増があり、32万3千石を領知しています。
寛文9年(1669)2代津藩主藤堂高次が隠居し、長子藤堂高久が3代津藩主となります。
その際、次子藤堂高通は5万石を分与されて、支藩の久居藩が立藩しました。
佐幕派の津藩は慶応3年(1867)に幕命により、西国街道上の山崎関門の守衛に就きます。大政奉還後も引き続き山崎関門の守衛を続けました。
慶応4年(1868)1月「鳥羽伏見の戦い」が始まると中立の立場を保っていましたが、明治新政府の勅使四条隆平の説得を受け入れ、官軍に協力することを決意し、
続く「戊辰戦争」では東海道の先鋒となって、各地で旧幕府軍と戦っています。これら一連の戦いでは郷士である無足人が活躍しています。
藩庁 | 津城(津市) | |
江戸屋敷 | 上屋敷(千代田区和泉町) | |
下屋敷(文京区駒込) | ||
石高(表高) | 32万3千石 | |
江戸城控間 | 大広間 | |
格付け | 国主 | |
爵位 | 伯爵 |
■津藩の歴代藩主
藤堂氏 | 家紋:藤堂蔦 本姓:藤原北家長家流 |
||
菩提寺:天台宗寒松院 (三重県津市) |
|||
代数 | 氏名 | 官位 | 在職 |
1 | 藤堂高虎 (たかとら) |
従四位下・ 和泉守 |
慶長13(1608) ~ 元和7年(1630) |
2 | 藤堂高次 (たかつぐ) |
従四位下・ 和泉守 |
元和7年(1630) ~ 寛文9年(1669) |
3 | 藤堂高久 (たかひさ) |
従四位下・ 和泉守 |
寛文9年(1669) ~ 元禄16年(1703) |
4 | 藤堂高睦 (たかちか) |
従四位下・ 和泉守 |
元禄16年(1703) ~ 宝永5年(1708) |
5 | 藤堂高敏 (たかとし) |
従四位下・ 和泉守 |
宝永5年(1708) ~ 享保13年(1728) |
6 | 藤堂高治 (たかはる) |
従四位下・ 侍従 |
享保13年(1728) ~ 享保20年(1735) |
7 | 藤堂高朗 (たかほら) |
従四位下・ 和泉守 |
享保20年(1735) ~ 明和6年(1769) |
8 | 藤堂高悠 (たかなが) |
従四位下・ 和泉守 |
明和6年(1769) ~ 明和7年(1770) |
9 | 藤堂高嶷 (たかさと) |
従四位下・ 和泉守 |
明和7年(1770) ~ 文化3年(1806) |
10 | 藤堂高兌 (たかさわ) |
従四位下・ 和泉守 |
文化3年(1806) ~ 文政6年(1824) |
11 | 藤堂高猷 (たかゆき) |
従四位上・ 左中将 |
文政6年(1824)~ 明治4年(1871) |
12 | 藤堂高潔 (たかきよ) |
左近衛権少将 | 明治4年(1871) |
■津藩の家臣団
津藩家臣の階級は家禄をもととして、職掌によって座席を定め、これを家中席附とも座席といいます。
安政時代の席附では、城代・家老・番頭・弓大将・加判家老の5職を最上とし、以下8階級を区分されます。
城代は藩主を助けて領内を統治をする最高地位。寛永17年(1640)藤堂仁右衛門高経が津城代、藤堂釆女が上野城代になり、両家が世襲しました。
家老は藩主を助けて政務をとる老成人の意味で、古くは年寄、または老中といいました。
番頭は古くは組頭といい、平時には組下に法令を伝達し、組下からの願書を取次ぐのが役。家老は番頭から任命されました。
弓大将は弓隊の将で、弓士11人、弓卒20人の1隊を率いました。後に弓頭と改められました。
8階級は年始式礼の区別によります。
1、年始太刀折紙
2、常上下(年始には肩衣)
3、年始長上下
4、独礼百石以上
5、年始のしめ
6、年始御流
7、三十石以上陪臣
8、御通り掛り
以上の8階級を独礼と総礼とに大別しました。 独礼とは新年拝賀式に各人別に拝賀をし、総礼は5名が1組となって拝礼します。 最下級の御通掛りは、藩主が廊下を通行する時に群集が伏礼しました。
そしてこの階級区分によって平常の服装からすべての待遇に至るまで区分がされました。
無足人制度
津藩では、郷村に居住する武士(あるいは半農半士)を無足人と呼びます。
無足人頭の下に、薮廻り無足人(のち郷鉄砲無足人)・山廻り無足人・御目見無足人(御供無足人)・平無足人の区分があり、伊賀無足人で1200人前後いました。
当初は由緒ある武士の家筋に限られていましたが、天保年頃(1830~44)になると、米穀や金銭を藩への献納した功労で、無足人に採用される者が現れました。
⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)
■津藩の家臣
『藤堂高虎家臣辞典』より慶安4年2月藩士家名
あ) | 浅井・青木・赤井・浅木・尼子・雨森・阿閉・赤尾・粟屋・安藤・安孫子・ 穴生・新井・青地・赤林・赤城 |
い) | 飯田・伊藤・市田・石田・入交・伊丹・乾・池田・居相・家喜・板崎・岩間・ 茨木・石崎・今西・池原・今井・礒野・猪飼・稲葉・井上・今村・市川・井関・ 磯谷・今木・石川・石崎・伊東・岩崎・飯田 |
う) | 梅田・馬野・梅原・宇津・上村・宇野・宇佐美・植田・内堀・雲林院・臼杵・ 上野・氏井・内海・内田・上田・梅岡・梅沢・植松 |
え) | 榎津・榎並・衛藤・江村・江川 |
お) | 大野・尾気・岡山・小川・小野・大木・押川・落合・奥村・大塚・尾呂志・
岡・忍田・大野木・越知・奥山・岡野・長田・岡本・岡部・大沢・沖 |
か) | 加納・加藤・河端・加久見・河口・貝野・鎌田・神田・狩野・梶田・片野・ 亀井・金谷・河部・春日 |
き) | 菊川・岸田・喜多・喜多嶋・岸・紀太・菊山・木津・城井・木村・菊池・北原 |
く) | 葛原・草野・熊谷・栗田・桑名・黒岩・栗本・栗屋・桑津・久野・工藤・ 久米・草川・久保 |
こ) | 小鴨・小屋・小森・小出・河野・小林・郷・後藤・小・ |
さ) | 佐久間・榊原・沢・佐伯・佐藤・相楽・沢村・佐々・佐脇・沢木・坂井・ 佐治・桜木・猿山・斎藤・佐野・澤田・佐々木・寒江・坂村・佐井 |
し) | 七里・島崎・島川・重富・下川・白井・柴田・清水・新免・下石・柴山・ 白石・渋屋・下河部・島村・下山・渋川・進藤 |
す) | 須知・杉立・鈴木・杉山・杉野・杉谷・杉井・杉本・末高・菅原 |
せ) | 関・千田・関本・関口 |
そ) | 曽我 |
た) | 武井・田中・竹澤・田公・滝野・武田・竹村・竹原・多賀・高橋・多羅尾・ 滝田・竹永・谷本・竹島・滝・谷川・滝岡・玉置・高田・田宮・竹中・ 田屋・竹田・高畑・竹内・田野・高瀬・高浜・鷹取・高野・滝本・谷 |
ち) | 長 |
つ) | 恒川・鶴原・経屋・土田・柘植・土瀬・堤・続谷・津野・塚田・津村・辻岡・津田 |
て) | 寺田・寺町・寺島・寺村 |
と) | 友田・戸波・百々・藤堂・富岡・豊竹・富屋・土居・豊味・戸田・豊島 |
な) | 中村・中西・中小路・中尾・中内・中山・中川・長井・長野・中井・長屋・ 中根・内藤・永井・半井・奈須・中道・中島・永島 |
に) | 西澤・西村・西川・丹羽・西島・西根・西野・西庄・西田 |
の) | 野崎・野殿・野崎・野村・野依・野間・野田 |
は) | 林・服部・速水・萩森・花井・原田・萩山・伴・橋本・八田・馬場・原 |
ひ) | 彦坂・平尾・平松・平田・疋田・日野・泥谷・昼川・平塚・平野 |
ふ) | 福喜多・藤掛・淵田・古市・淵本・深井・深溝・福井 |
へ) | 別所 |
ほ) | 堀田・本庄・堀・堀内・細井・星野 |
ま) | 蒔田・松浦・町井・松尾・真野・馬淵・松本・松宮・前野・町野・松原・ 真川・松山・松井・俣野 |
み) | 箕浦・三田村・三村・三浦・箕浦・水沼・宮川・三牧・三上・三根・水上・ 三好・深山・三井・水島 |
む) | 村井・村治・村田・村瀬・向日 |
も) | 百田・森・森川・森嶋・森本・森田・本山 |
や) | 山岡・山田・柳生・保田・安波・山本・山口・矢守・矢倉・八木・山根・ 山内・山川・薮・矢納・八橋・柳田・八十島・山中・矢島・山崎 |
ゆ) | 湯浅 |
よ) | 余田・依岡・吉田・横田・吉住・吉益・米野・横浜・米村・吉武・横山・吉川 |
り) | 力石 |
わ) | 渡辺・和田・若原・脇坂・和久 |