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佐賀藩家臣のご先祖調べ

 肥前の戦国大名龍造寺隆信が、天正12年(1584)「沖田畷の戦い」で戦死します。 隆信の嫡男龍造寺政家が当主となり、隆信の義弟鍋島直茂が補佐役として実権を握ります。
 天正15年(1587)豊臣秀吉による九州平定により、政家は肥前国7郡30万余石を安堵され、そのうち鍋島直茂勝茂父子は4万4500石を与えられました。
 「関ヶ原の戦い」では、鍋島勝茂が当初西軍に参戦したが、関ヶ原の本戦では戦線から離脱、 鍋島直茂は九州西軍の小早川秀包(久留米城)、次いで立花宗茂(柳川城)を攻略しています。 鍋島氏の戦いは徳川家康に認められ、龍造寺家の本領は辛うじて安堵されました。
 龍造寺政家高房が死ぬと、実権を握っていた鍋島直茂が嫡男の鍋島勝茂に龍造寺家を相続させる形で佐賀藩主となりました。
 幕府公認の下ですが、主家龍造寺の家臣団と鍋島家臣団との間で大きな対立を起こすことなく、政権移譲が出来たのは稀な例といえます。

 佐賀藩には、蓮池藩(勝茂の五男直澄が立藩)・小城藩(勝茂の長男元茂が立藩)・鹿島藩(勝茂の弟忠茂が立藩)の支藩と、 鍋島家の4つの庶流(親類)、白石鍋島家川久保鍋島家村田鍋島家村田家、そして4つの龍造寺一門(親類同格)、多久家・武雄家諫早家須古家があり、それぞれ自治領がありました。 そのため本藩の直轄領は6万石程度であったといいます。
 その後、龍造寺4家には養子を送り込み、うまく藩政に取り込み、藩全体の鍋島化を徐々に図っていきます。
 2代藩主鍋島光茂に仕えた山本常朝は『葉隠聞書』を記し、佐賀武士の精神的支柱となりました。

 佐賀藩は、幕府より福岡藩と1年交代で、長崎の警備を命じられました。藩財政にとって大きな負担でしたが、西洋文明や進んだ技術に触れる機会も多くありました。 10代藩主鍋島直正は藩政改革とともに西洋技術の摂取に努め、反射炉の建設・アームストロング砲など西洋式大砲や鉄砲の製造・三重津海軍所の設置など、幕末期に雄藩として飛翔する土台を作ります。

 技術の近代化を進めた佐賀藩は、西国雄藩として頭角を表します。ところが激動の中央政界では、佐幕派か尊王派か、その立場を明確にしなかったため、藩としての政治力・軍事力ともに発揮することはありませんでした。 討幕には消極的であったこともあり、静観を続けていましたが、 「戊辰戦争」では上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで、最新式の兵器を装備した佐賀藩兵の大いに活躍します。 また佐賀藩は、明治政府や民間で活躍する有能な人材を生み出しており、薩長土肥の一角を担うこととなりました。

佐賀藩
  藩庁 佐賀城(佐賀市)  
  江戸屋敷 上屋敷(千代田区:日比谷公園あたり)
 中屋敷(港区虎ノ門:元国立印刷局) 
下屋敷(渋谷区千駄ヶ谷:東京体育館あたり)
 
  石高(表高) 35万7千石
  江戸城控間 大広間
  藩校 弘道館 天明元年設立
  格付け 国主
  爵位 侯爵

佐賀藩の歴代藩主
鍋島氏 家紋:鍋島杏葉瓜
本姓:藤原北家少弐氏?
菩提寺:曹洞宗高伝寺
 (佐賀市本庄町)
代数 氏名 官位 在職
鍋島勝茂
(かつしげ)
従四位下・侍従 慶長12年(1607) ~
明暦3年(1657)
鍋島光茂
(みつしげ)
従四位下・侍従 明暦3年(1657) ~
元禄8年(1695)
鍋島綱茂
(つなしげ)
従四位下・侍従 元禄8年(1695) ~
宝永3年(1706)
鍋島吉茂
(よししげ)
従四位下・侍従 宝永3年(1706) ~
享保15年(1730)
鍋島宗茂
(むねしげ)
従四位下・侍従 享保15年(1730) ~
元文3年(1738)
鍋島宗教
(むねのり)
従四位下・侍従 元文3年(1738) ~
宝暦10年(1760)
鍋島重茂
(しげもち)
従四位下・侍従 宝暦10年(1760) ~
明和7年(1770)
鍋島治茂
(はるしげ)
従四位下・侍従 明和7年(1770) ~
文化2年(1805)
鍋島斉直
(なりなお)
従四位下・侍従 文化2年(1805) ~
天保元年(1830)
10 鍋島斉正
(なりまさ)
従四位下・侍従
大納言
天保元年(1830) ~
文久元年(1861)
11 鍋島茂実
(もちざね)
正二位・侍従 文久元年(1861) ~
明治4年(1871)

佐賀藩の家臣団
 佐賀藩の家臣団の序列は、おおよそ以下の通りです。
 三家…蓮池・小城・鹿島の3支藩
 親類…白石鍋島・川久保鍋島・村田鍋島・村田
 親類同格…龍造寺4家
 家老(連判・加判)…石井・神代鍋島・深堀鍋島・姉川鍋島・太田鍋島・倉町鍋島
 この下に着座独礼平侍手明鑓徒士足軽があります。
 手明鑓とは半士半農の身分です。本藩と蓮池藩のみ。

 佐賀藩は、龍造寺氏治世以来の家臣も多く、その領国も変わっていないことから、戦国時代の支配形態が残っていました。 上級家臣は「大配分」と称され、多くの知行地を持ち、独自の自治や年貢を徴収を行い、家来(陪臣)を養っていました。 そのため藩の財政は厳しく、江戸時代後期になると蔵米取りの武士が増えていきました。

      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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佐賀藩の家臣
『元禄八年 着到』より佐賀本藩の藩士家名
あ) 相浦・相原・青木・赤司・朝倉・我孫子・綾部・荒木・有田・安住
い) 井内・伊香加・生嶋・池田・諫早・石井・石尾・石川・石隈・石田・石橋・石丸・ 一番ケ瀬・市丸・伊藤・伊東・犬塚・井上・今泉・入江・岩村
う) 上野・牛嶋・内田・梅崎・嬉野
え) 江口・江副・枝吉・江里口・遠藤
お) 小芦・大石・大木・大隈・太田・大塚・大坪・大野・大村・岡・岡部・岡本・小川・小国・於保・恩田

か) 加々良・柿原・勝星・金丸・鐘ヶ江・嘉村・亀山・蒲原・川崎・河瀬・川副・川浪・川波
き) 北嶋・北原・木塚・木下
く) 空閑・久我・草場・草野・櫛山・久布白・神代・倉永・栗山
こ) 小出・洪・香田・古賀・小林・小原・小森・小山・近藤

さ) 斎藤・坂堺・相良・佐川・佐野・澤野
し) 執行・重松・志田・渋谷・嶋・下村・城嶋・正島・志波・陣内
す) 末次・鈴木・杉町・椙町・椙本・角
せ) 関・千住
そ) 宗・副島・薗田

た) 多賀・高木・田久・竹下・竹田・竹野・田代・田雑・多々良・田中・種初・田原
ち) 千布・千葉
つ) 辻・土山・堤・靏・鶴田
と) 徳島・徳久・戸田・土肥・富永・友田・鳥巣・問田

な) 中・中川・中嶋・中西・中野・中橋・中村・永山・長束・鍋嶋・楢村・成富・成松・南部・南里
に) 西・西牟田・西村・丹羽
ね) 根岸・音琴
の) 納富・野口・野副・野田・野辺田

は) 萩原・橋野・馬場・濱田・羽室・林・原・原口・原田
ひ) 東嶋・久納・秀島・百武・平田・平原・廣木・廣渡
ふ) 深江・深川・深堀・福井・福嶋・福地・福富・藤井・藤戸・藤崎・藤永・藤本・藤山・古川
ほ) 星野・堀田

ま) 前山・真崎・槇・増田・松坂・松崎・松田・松永・馬渡
み) 三浦・三岳・水町・満岡・三島・三谷・宮崎・宮嶋・宮地・宮部・三好
む) 向井・牟田・武藤・村岡・村上・村田・村松・村山・室節
も) 森川・諸岡

や) 八戸・矢島・安田・安満・八田・柳川・八並・山口・山崎・山田・山部・山村・山領
よ) 横尾・横山・吉井・吉岡・吉田・吉原

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