お問い合わせをお待ちしております
TEL. 075-922-3041
営業時間 AM10:00 ~ PM21:00
鯖江藩家臣のご先祖調べ
享保5年(1720)9月、越後国村上藩主 間部詮言が移封され鯖江藩が立藩します。以降明治維新まで間部氏が治めます。詮言の兄間部詮房は6代将軍・徳川家宣の側用人として権勢を振るったことで有名です。
そもそも間部家は甲府藩主徳川家の軽輩の家臣でした。詮房ははじめ猿楽師・喜多七太夫の弟子であったといわれています。
その間部家が栄達の端緒を開いたのは、徳川綱豊公(のちの6代将軍徳川家宣)の小姓に抜擢されたことにありました。その後異例の栄進を遂げて、高崎藩5万石の領主となっています。
日本史上、猿楽師が大名になった例はありません。当然のことながら幕閣には間部詮房の栄達を妬み、その専横を恨む者さえいました。8代将軍徳川吉宗公の代になると詮房は失脚し、僻遠の地越後村上藩へ移封が命じられています。
その跡を継いだ弟間部詮言はさらに無城の地鯖江藩へ移封を命じられました。
当時の鯖江は幕府窪嶋代官の陣屋があるだけで、北陸街道の宿場からも離れ、家数27軒程度の寒村でした。まさに左遷です。
加えて周りには御家門越前松平家の福井藩と幕府領があり、まさに監視対象といえる立場となりました。
加えて越後村上藩に比べて実収入は6割程度に激減しました。
鯖江入りした間部詮言は、まず家臣団の編成や城下町の建設から始めねばならず、それに費やした莫大な金銭は藩財政を圧迫することになります。
以来、藩財政問題は鯖江藩を苦しめることになります。
しかし幕末期になると幕閣中枢で活躍する藩主が現れます。7代藩主間部詮勝は老中となり、大老井伊直弼を支えて開国のため奔走しています。
藩庁 | 鯖江陣屋(鯖江市) | |
江戸屋敷 | 上屋敷(千代田区大手町2丁目) 下屋敷(品川区東大井4丁目) |
|
石高(表高) | 4万石 | |
江戸城控間 | 雁間 | |
格付け | 城主 | |
爵位 | 子爵 |
■鯖江藩の歴代藩主
間部氏 | 家紋:丸に三つ引 出自:不詳 |
||
菩提寺:曹洞宗万慶寺 (鯖江市深江町) |
|||
代数 | 氏名 | 官位 | 在職 |
1 | 間部詮言 (あきとき) |
従五位下・ 下総守 |
享保5年(1720) ~ 享保9年(1724) |
2 | 間部詮方 (あきみち) |
従五位下・ 若狭守 |
享保9年(1724) ~ 宝暦11年(1761) |
3 | 間部詮央 (あきなか) |
従五位下・ 主膳正 |
宝暦11年(1761) ~ 明和8年(1771) |
4 | 間部詮茂 (あきとお) |
従五位下・ 下総守 |
明和8年(1771) ~ 天明6年(1786) |
5 | 間部詮煕 (あきひろ) |
従五位下・ 主膳正 |
天明6年(1786) ~ 文化8年(1812) |
6 | 間部詮允 (あきさね) |
従五位下・ 主膳正 |
文化8年(1812) ~ 文化11年(1814) |
7 | 間部詮勝 (あきかつ) |
従五位下・ 下総守 |
文化11年(1814) ~ 文久2年(1862) |
8 | 間部詮実 (あきざね) |
従五位下・ 安房守 |
文久2年(1862) ~ 文久3年(1864) |
9 | 間部詮道 (あきみち) |
従五位下・ 下総守 |
元治元年(1864) ~ 明治4年(1871) |
■鯖江藩の家臣団
鯖江藩の家臣団の多くは間部家初代間部詮房の出世とともに召抱えられています。家臣団の原型は上野国高崎時代に形作られ、鯖江入封以前の士分数は125人とされています。 入封時の家老職は、江戸勤番の奥村治右衛門・鈴木又右衛門・奥村一学、鯖江在番の植田半蔵・小堀勘十郎の5人です。
その後、小堀家・植田家・木内家・田子家が家老職の家と定められ、次の年寄・中老・加判中老・番頭・用人には23家が選ばれました。
慶応4年(1868)の分限帳によると、鯖江藩の家臣団は上士(30石以上)が15人、中士(15石以上)が87人、下士(6石以上)が304人、卒(3石以上)が307人、の4つの格式に分けられます。
上士からは家老・城代・年寄・中老・番頭・用人が選ばれました。
中士からは城番・持頭・物頭・諸奉行・目付・元締・取次など、藩政機構の実務責任者が選ばれました。その働きによって上士への昇進も可能でした。
下士は小寄合以下で、無足・小姓・祐筆・組頭・小役人・徒士などがあります。
卒分は士分以下になり、小頭以下に12階層に分かれていました。通常一代限りに勤めです。しかし能力次第では士分に取り立てられることも可能で、代官に抜擢された者もいました。
藩士の家督相続は、特定の重職に付いている場合を除き、親の格付けより下位から始まりました。
鯖江藩の財政が厳しく、家督相続に際して減禄することが通例になっていました。加増されることも少なく、むしろ給禄の「半知」「上米」が多く藩士は厳しい生活を強いられていました。 中士の給禄状況をみてみると、春・夏・暮の年三回で、扶持米と金給分に分けて支給されました。
鯖江藩は譜代大名として江戸詰が多く、家老が大きな権限を持っていました。また小藩の中では役職も多く、親子勤めや役職兼務など支配関係が複雑であったと言われています。
職制には表方(政務)・勝手方(財務)・奥向(家政)の3系統があります。
表方の中には家老・年寄・中老で構成される総政、番頭・旗奉行・物頭などで構成される軍務、用人・留守居で構成される公務文武、 寺社奉行・町奉行・郡奉行で構成される民政聴訴、大目付・目付・勝手目付で構成される観察がありました。
⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)
■鯖江藩の家臣
『席書』より藩士家名
あ) | 芥川・青柳・青木・秋元・足立・雨宮・青山 |
い) | 石井・五十嵐・伊東・伊丹・板橋・岩橋・飯崎・伊藤・井上・茨城・岩上・ 石渡・一色・乾・生野 |
う) | 植田・植村・上原・臼井・内田・上田・生形・宇賀治 |
え) | 江坂 |
お) | 奥村・小川・岡田・大関・大鈴・大郷・小倉・小野・大山・尾瀬・小畑・
岡本・小笠原・小沢・恩地・奥田・大村・岡 |
か) | 河口・河合・河原・鎌田・川手・加藤・片桐・片寄・加納・河島・片山 |
き) | 木内・喜多山・岸松・菊池・北村・木村 |
く) | 栗原・熊沢・草間・桑原・黒岩・窪田・倉沢 |
こ) | 小林・小堀・小磯・小池・郷司・近藤・河野・小曽戸・後藤・小柏・菰田・
小松・固山 |
さ) | 里見・佐々・斎藤・佐々木・佐久間・沢・佐藤 |
し) | 志村・島津・清水・嶋方・新宮・柴田・七里・芝崎 |
す) | 鈴木・須子・諏訪・菅井・杉崎・杉浦 |
せ) | 勢家・千田・瀬戸 |
そ) | 曽我・祖父江 |
た) | 田子・武・田中・竹元・大道寺・竹原・高橋・武田・高木・高田・田代・ 田井・田部井・高峰・竹内・竹田・谷本・瀧・田村・田川 |
つ) | 津田・土屋・津久井・塚崎 |
と) | 土肥・戸祭・豊田・富岡・徳永・冨田 |
な) | 永岡・中村・永田・中島・永岡・中川・中森・内藤・永宮・永井・永坂 |
に) | 西島・西・西川・西沢・西倉 |
ぬ) | 沼沢 |
の) | 野村 |
は) | 冶田・波多野・長谷川・林・伴・八田・早川 |
ひ) | 樋口・平池・平川・平柳 |
ふ) | 古川・藤田・藤巻・深井・藤倉・福岡・藤枝・福島 |
ほ) | 本多・堀内・堀越・堀・堀井・星野 |
ま) | 間部・松本・松井・増田・益子・松野・松田・増 |
み) | 水谷・三井・水口・水沢・三浦・三橋・三原・三坂 |
む) | 村山 |
も) | 森山 |
や) | 山口・山田・山村・山浦・矢代 |
ゆ) | 湯浅 |
よ) | 芳沢・吉田・芳野・吉井・吉村・吉住 |
わ) | 渡辺・脇本 |