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岡山藩家臣のご先祖調べ

 戦国時代、宇喜多秀家が岡山城に居城し、豊臣家五大老として権勢を強めました。 しかし「関ヶ原の戦い」で西軍方となり改易、代わって小早川秀秋が入封して備前・美作51万石の領主となります。
 慶長7年(1602)、小早川家が廃絶になると、翌慶長8年(1603)播磨国姫路藩主池田輝政の次男忠継が入封しました。
 池田忠継の歿後、弟の淡路国洲本藩主池田忠雄が入封します。 寛永9年(1632)忠雄が31歳で歿し、わずか3歳の嫡子池田光仲が家督を継ぐことになります。
 幕府は、幼ない藩主では山陽道の要所岡山を治めることは難しいと判断し、鳥取藩への国替えを命じました。 これにより従兄弟の鳥取藩主池田光政岡山藩へ入り、池田光仲鳥取藩を就封しました。
 池田家は池田輝政と徳川家康の二女督姫の間に生まれた忠継・忠雄の家系であることから、 外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられたといいます。
 池田光政は陽明学者熊沢蕃山を登用し、先駆けて岡山藩藩学を開校し、庶民のための学校閑谷学校も開いています。 そのほか新田開発・治水事業で成果をあげ、水戸の徳川光圀・会津の保科正之とともに江戸初期の3名君として称されています。
 支藩には岡田新田藩(鴨方藩)(浅口市)・生坂藩(倉敷市)があります。
 9代藩主池田茂政は、水戸藩主徳川斉昭の九男で、 15代将軍徳川慶喜や鳥取藩主池田慶徳(斉昭の五男)の弟にあたります。 この影響から勤皇・佐幕という微妙な立場をとり続けました。
「戊辰戦争」が始まると茂政は隠居し、代わって支藩鴨方藩主池田政詮(章政と改める)が就封します。 尊王攘夷派であった池田政詮は倒幕の旗幟を鮮明にし、藩兵を東北・函館の戦線へ送っています。

岡山藩
  藩庁 岡山城(岡山市市)  
  江戸屋敷 上屋敷(千代田区丸の内1丁目 丸ビル辺り) 
下屋敷(品川区東五反田5丁目 池田山公園)
 
  石高(表高) 31万5000石
  江戸城控間 大広間
  格付け 国主
  爵位 侯爵

岡山藩の歴代藩主
池田氏 家紋:備前蝶
本姓:称・清和源氏
菩提寺:臨済宗曹源寺
 (岡山市)
代数 氏名 官位 在職
池田光政
(みつまさ)
従四位下・
左近衛権少将
寛永9年(1632) ~
寛文2年(1672)
池田綱政
(つなまさ)
従四位下・伊予守
左近衛少将
寛文2年(1672) ~
正徳4年(1714)
池田継政
(つぐまさ)
従四位下・大炊頭
左近衛権少将
正徳4年(1714) ~
宝暦2年(1752)
池田宗政
(むねまさ)
従四位下・伊予守
侍従
宝暦2年(1752) ~
明和元年(1764)
池田治政
(はるまさ)
従四位下・
左近衛権少将
明和元年(1764) ~
寛政6年(1794)
池田斉政
(なりまさ)
従四位下・上総介
左近衛権少将
寛政6年(1794) ~
文政12年(1829)
池田斉敏
(なりとし)
従四位下・伊予守
左近衛権少将
文政12年(1829) ~
天保13年(1842)
池田慶政
(よしまさ)
従四位下・内蔵頭
左近衛権少将
文化4年(1807) ~
天保元年(1830)
池田茂政
(もちまさ)
従四位上・備前守
左近衛権少将
文久3年(1863) ~
慶応4年(1868)
10 池田章政
(あきまさ)
従四位下・備前守
左近衛権少将
慶応4年(1868) ~
明治4年(1871)

岡山藩の家臣団
 藩主池田氏は、尾張織田氏の家臣で池田恒興の代、織田家重臣に出生。 信長歿後は豊臣秀吉に接近し、次代の池田輝政も秀吉に臣従し、天下統一事業に活躍します。 秀吉歿後は徳川家康に接近し、「関ヶ原合戦」では徳川方として勝利に貢献します。
 このように信長・秀吉・家康に巧みに臣従し、数度の加増転封のなかで家臣を増やしていきます。
 重臣の多くは尾張・美濃・三河国出身の譜代家臣で占められ、家老クラスは恒興・輝政時代からの古参家臣です。 岡山藩入封後に召し抱えられた新参家臣は士鉄砲以下の下級武士が大半でした。

 岡山藩家臣団の格席は以下のように分けられます。
 家老・番頭・物頭・近習・頭分・組頭・平士、ここまでが士分と言えるでしょう。 次が士鉄砲・徒になります。 元禄9年(1696)の記録では、平士以上が767人、士鉄砲・徒が527人いました。
 その下が戦時には雑兵となる軽輩・足軽です。

 次に岡山藩の格制を紹介します。
家老 年寄ともいい、藩政を執る最高機関の仕置職につきます。6〜7人います。
  伊木氏・池田氏・日置氏・土倉氏
番頭 戦時では士大将(司令官)の地位。
  藩兵の中核部隊となり、配下の組士とは親方・子方関係にあります。
  14〜10人います。
  池田氏・土倉氏・日置氏・芳賀氏・滝川氏・薄田氏・若原・梶浦氏など
物頭 近習物頭(25人程度)と外様物頭(17人程度)があります。
  戦時では鉄砲・弓足軽を率いる足軽大将(部隊長)の地位。
(近習)頭分 徒を配下とする部隊長。20人程度。
組頭 戦時では番頭などの下に配属される隊長。
平士 馬廻ともいわれる一般将校。番頭・物頭・頭分に配属される。
  俸禄は知行取と扶持取に分かれます。
士鉄砲 準士官です。俸禄は切米取。
 物頭・頭分に配属される下士官。徒目付・近習徒・先徒の三段階があります。
軽輩 各隊に分属する雑兵。約550人いました。
足軽 最下級の雑兵。約3100人いました。

      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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岡山藩の家臣
『慶応3年 御侍帳』より藩士家名
あ) 安東・安藤・浅野・青地・荒尾・秋田・青木・芦田・赤座・芦屋・青山
い) 伊木・池田・稲川・伊庭・岩田・石黒・今井・茨木・岩井・今田・今枝・石黒・石丸・ 市川・稲葉・伊藤・石田・市浦・市原・伊東・磯辺・伊丹・一色・生駒・飯田・一森・井上・石津・犬塚・ 石川・出石・伊法・石尾・市村・入江・伊澤・石原
う) 上坂・薄田・上島・浦上・生形・宇治・宇津木・羽原・植木・内田・上泉
え) 江見・榎並・榎・江崎
お) 小川・小畠・大久保・大村・尾関・小原・岡・大橋・大内・岡田・太西・大杉・大口・ 緒方・奥田・隠岐・尾上大島・景山・沖・岡崎

か) 梶浦・河田・河合・柏尾・梶川・河口・片山・垣見・加藤・香川・蟹江・亀嶋・神坂・ 梶田・糟谷・河崎・神屋・笠井・勝部・河瀬・香取・香西・河村・金谷・門田・河原・水主・加納・ 軽部・金光・勝原
き) 岸・喜多島・木全・行田・木崎・岸本・木畑
く) 熊沢・桑原・草谷・熊谷・久保田・久留島・草加・楠原・窪田
こ) 小崎・小堀・小谷・近藤・郷司・河野・駒田・国府・苔口・小崎・小森・児嶋

さ) 佐分利・佐々・齋藤・佐谷・雀部・篠岡・澤原・笹谷・坂井・佐藤・澤井・斎木・桜井・澤田
し) 下方・下濃・塩川・荘野・神・柴田・進・柴岡・塩見・進藤・篠村
す) 杉山・鈴木・菅・須加・角南・鈴村・須崎・杉浦
せ) 仙石・千場・芹川

た) 瀧川・高木・田中・高桑・立野・竹村・武田・田口・瀧波・玉井・高崎・田坂・瀧・田宮・ 谷川・多賀・玉虫・田上・谷・竹内・丹比・竹家
つ) 土倉・津田・辻・津川・堤
て) 寺澤・寺崎・寺本・寺尾
と) 土肥・富田

な) 中村・成瀬・那須・長屋・内藤・中尾・楢村・中野・中山・中島・中川
に) 丹羽・西村・西浦
の) 野村・野間・能勢・野崎・野口・野々村

は) 服部・芳賀・林・番・長谷川・波多野・原田・馬場・橋本・早川・伴・原・萩田・ 八田・春田・塙・林崎・蜂谷・花房・林崎
ひ) 日置・廣内・土方・廣澤・平賀・平野・廣田・姫井
ふ) 深谷・古田・藤岡・船戸・船橋・福島・福田・古澤・藤井・福原・淵本
へ) 別所
ほ) 堀・堀内・本郷・堀兼

ま) 牧野・松原・丸毛・松山・松本・松田・前田・万代・丸山・松尾・槇村・松島・松村
み) 宮城・水野・水原・宮部・三上・三宅・南・見戸・光岡・三谷
む) 村瀬・村井・村上・村山・武藤・村木・村田・村川
も) 森本・森川・森・森寺・守田・森島

や) 山内・山脇・山田・安田・山根・山崎・矢部・山瀬・山川・薮井・山縣・山中・山口
ゆ) 湯浅
よ) 吉崎・吉田・横井
わ) 渡辺・和田

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