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大垣藩家臣のご先祖調べ
大垣は近江への入り口を守る重要拠点でした。「関ヶ原の合戦」では大垣城を抑えることは勝敗を左右するほどでした。
「関ヶ原の合戦」後、譜代の重臣石川康通が5万石で入封しますが、「大坂の陣」で戦功を挙げた石川忠総が転封となります。
代わって元和2年(1616)松平忠良(久松松平氏)が下総国関宿藩よりから入封します。
松平忠良の歿後、跡を継いだ松平憲良は幼少のため転封となり、寛永元年(1624)丹波国福知山藩より岡部長盛が入封しまする。
跡を継いだ岡部宣勝が寛永10年(1633)播磨国龍野藩へ移封されると、
ついで山城国淀藩より松平定綱(久松松平氏)が入封します。
このように江戸時代初期は頻繁に藩主家が交替します。
寛永12年(1635)摂津国尼崎藩から戸田氏鉄が10万石で入封します。
戸田氏鉄は寛永14年(1637)の「島原の乱」で戦功を挙げ、内政においては新田開発や治水治山事業、家臣団編成などに実績を残しています。大垣藩政の基礎を固めた藩主でした。
以来、明治維新まで戸田家が藩主として存続しています。
美濃国には9つ藩がありましたが、大垣藩はその筆頭の立場にありました。
7代藩主戸田氏教は老中を勤めています。
9代藩主戸田氏正は軍制改革を行ない、大砲鋳造などの洋式軍制を導入しています。徳川斉昭に影響を受け、尊皇攘夷論に傾倒していったといいます。
この軍制改革の成果は、元治元年の「禁門の変」や、慶応2年の「長州征伐」での戦功として現れています。
慶応2年(1866)11月、再度軍制の大改革を行ない、寺には僧兵隊、町には町兵隊、村には農兵隊を組織させ、洋式訓練の実施しています。
慶応4年1月、新政府軍と旧幕府軍が激突する「鳥羽・伏見の戦い」が起こります。大垣藩兵は旧幕府方として参陣し、新政府軍と戦い、朝敵とみなされます。
この危機に、新政府に出仕していた重臣小原鉄心は大垣に帰国して前藩主戸田氏正とともに、
現藩主戸田氏共や佐幕派家臣を説得して、藩論を恭順に統一し朝廷に謝罪しました。
「戊辰戦争」では新政府の東山道鎮撫軍の先鋒を務めています。
以下、歴代藩主家の中で戸田氏について記します。
藩庁 | 大垣城(大垣市) | |
江戸屋敷 | 上屋敷 ANAインターコンチネンタルホテル東京辺り(港区赤坂1丁目)
中屋敷 下屋敷 (台東区竜泉2丁目) |
|
石高(表高) | 10万石 | |
江戸城控間 | 帝鑑間 | |
格付け | 城主 | |
爵位 | 伯爵 |
■大垣藩の歴代藩主
※歴代藩主の中で戸田氏を記します。
戸田氏 | 九曜紋 本姓:藤原北家公季流正親町三条家の庶流 |
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菩提寺:浄土宗円通寺(大垣市西外側町) |
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代数 | 氏名 | 官位 | 在職 |
1 | 戸田氏鉄 (うじかね) |
従四位下・ 采女正 |
寛永12年(1635) ~ 明暦元年(1655) |
2 | 戸田氏信 (うじのぶ) |
従四位下・ 采女正 |
明暦元年(1655) ~ 寛文11年(1671) |
3 | 戸田氏西 (うじあき) |
従四位下・ 肥後守 |
寛文11年(1671) ~ 貞享元年(1684) |
4 | 戸田氏定 (うじさだ) |
従五位下・ 采女正 |
貞享元年(1684) ~ 享保8年(1723) |
5 | 戸田氏長 (うじなが) |
従四位下・ 伊賀守 |
享保8年(1723) ~ 享保20年(1735) |
6 | 戸田氏英 (うじひで) |
従五位下・ 采女正 |
享保20年(1735) ~ 明和5年(1768) |
7 | 戸田氏教 (うじのり) |
従四位下・ 侍従 |
明和5年(1768) ~ 文化3年(1806) |
8 | 戸田氏庸 (うじつね) |
従四位下・ 侍従 |
文化3年(1806) ~ 天保12年(1841) |
9 | 戸田氏正 (うじただ) |
従四位下・ 采女正 |
天保12年(1841) ~ 安政3年(1856) |
10 | 戸田氏彬 (うじあきら) |
従四位下・ |
安政3年(1856) ~ 慶応元年(1865) |
11 | 戸田氏共 (うじたか) |
従四位下・ 侍従 |
慶応元年(1865) ~ 明治4年(1871) |
■大垣藩の家臣団
戸田氏は初代戸田氏鉄の時に231人の知行取藩士がいました。2代戸田氏信の寛文5年(1665)には305人に増加します。 しかし家臣の増加は次第に藩財政を悪化させ、3代戸田氏西は家臣数を1割ほど削減しています。(延宝の大暇)天和年間には知行取以上が291人、家臣総数は約1500人いました。
戸田氏家臣団は三州以来衆・膳所衆・尼崎衆の古参家臣を土台に、3代戸田氏西の代でほぼ固まります。
家臣の格式(身分的序列)には、家老・番頭(組頭)・組外・者頭(物頭)・平士・歩士(徒)・足軽・仲間などがありました。 番頭(組頭)は知行組の組頭で、城代に任じられます。 者頭(物頭)は足軽組の組頭を務めました。 平士は知行組(6~8組ある)に所属する者をいい、ここから諸奉行・鉄砲頭・弓頭・徒頭・御側役・大目付などが任じられました。平士以上が知行取です。
知行取とは建前上でも知行地を与えられる家臣です。
知行取の禄高は、家老が2000石~1500石、番頭が1000石~500石、組外が500石~300石、者頭が300石~200石、平士が300石~50石でした。
知行取に対して切米取があります。切米取とは米または金で俸禄を支給されるものをいいます。
切米取には、大小姓組・子小姓組・歩行組などに所属する 徒士がおり、切米45俵~20俵が支給されます。徒士が以上が士分にあたります。 その下には、持筒組・持弓組・先鉄砲組などに所属する足軽、そして仲間がいました。
他藩同様に、格式によって城中での礼遇・屋敷構と屋敷場所・役職まで、明確な格差がありました。
大垣藩の地方支配は、領内を4つに分け、それぞれに郡奉行(のちに勘定奉行と兼役)が立てられ、 さらに領内を10ほどの筋に分けて、各筋に年貢取立や裁判訴訟を所管する代官が置かれました。 代官の多くは地域の豪農が務め、円滑な支配体制を確立しました。
この他、郡役所には代官手代・郡方(郡奉行下役)・郡同心(警察)がいました。
⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)
■大垣藩戸田家の家臣
『延宝五年(1677)分限帳』より、戸田氏西御代の藩士家名
あ) | 浅井・浅川・浅野・天野・荒木・青江・秋山・足立・明石・浅賀・相羽・赤松・浅坂・ 青嶋・赤塚 |
い) | 伊藤・井戸・飯田・岩井・磯貝・市村・池田・石川・井田・稲垣・石丸・斎木・猪股・ 飯沼・今尾・井上・生熊・井深・岩田・市川・一色 |
う) | 上野・上村・宇野・上田・内海・鵜飼・内田・宇佐美・梅田 |
え) | 榎並・江守 |
お) | 大竹・小野原・小野崎・岡本・太田・大西・奥田・大屋・大野・大関・尾崎・大嶋・
大米・小川・小原・岡・奥・小野・緒方・大高・岡田・奥村・小原・小倉・大瀬・落合・奥山・大橋・
黄合・大沢・岡村・大雲 |
か) | 川西・梶川・川田・川井・河合・河嶋・蔭山・加藤・加沼・河村・香山・粕屋・兼子・ 神部・神崎・片瀬・神戸・甲斐・桂・風岳・筧・川喜多 |
き) | 木村・木沢・岸・岸田・岸本 |
く) | 黒川・久保田・桑原・黒戸・国枝・栗田・桑島・窪田・口多・倉科・黒柳 |
こ) | 香村・小出・近藤・子安・国分・小里・上月・古藤・柑子・小森・小山・香坂・小林
|
さ) | 佐藤・酒井・斎藤・里見・佐野・桜井・沢村・佐和・沢野・佐原・坂田 |
し) | 柴田・嶋田・白井・塩原・忍・嶋木・下川・塩津 |
す) | 鈴木・須田・菅沼・菅原・杉村・鷲見・杉田・杉山 |
せ) | 関 |
た) | 田付・高畑・竹内・田結・高田・高橋・高梨・田中・孝島・高津・高萩・立川・高木・ 多田・高岡・高野・田原・種村・田村・高崎・谷・竹中・田上・田原 |
つ) | 月岡・津田・坪井・塚本・辻・筒見・柘植・堤・辻本・辻村・常谷 |
て) | 寺田 |
と) | 冨山・戸田・説田・鳥井・土屋・遠山・戸沢・友松・豊田 |
な) | 縄生・永田・長屋・中村・永見・中川・成田・中山・中嶋・内藤・永井・中西・中尾・ 永野・名波・成瀬 |
に) | 西岡・西嶋・西川・仁科・西・二宮・西脇 |
の) | 野中・野口 |
は) | 林・橋垣・早川・伴・八田・服部・原井・浜井・早野・波賀 |
ひ) | 平塚・人見・樋口・平川 |
ふ) | 藤田・深山・深田・古井・布施・藤本・藤村 |
ほ) | 堀内・本間・堀江・細井・堀・星野・堀田・保科 |
ま) | 間宮・町田・万喜・増田・松井・正木・松下・真鍋・松原・松村・牧・真野・松野・ 間瀬 |
み) | 水野・宮田・宮崎・三好・宮川・三木・三友 |
む) | 向坂・村田・村瀬・村上・村山 |
も) | 森・望月 |
や) | 安井・山本・安田・山岸・山田・山中・谷沢・山川・山村・安沢・山下・山口 |
よ) | 吉村・横井・横田・横山 |
わ) | 和田・渡辺・若林 |