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松山藩家臣のご先祖調べ
松山藩は慶長5年(1600)「関ヶ原合戦」の勲功により加藤嘉明が加増を受けて、20石で立藩しました。
寛永4年(1627)加藤嘉明が会津藩42万石に加増転封されると、代わって出羽上山藩より蒲生忠知が入封しました。
寛永11年(1634)8月蒲生忠知が嗣子無く死去したため蒲生氏は無嗣断絶となり、
代わって寛永12年(1635)伊勢桑名藩より久松松平家の松平定行が15万石で入封しました。
松平定行の祖母は、徳川家康の生母於大の方(おだいのかた)です。松山藩は徳川家康の異母弟系統の親藩でした。
以後、久松松平家の治世が幕末維新期まで続きます。
享保5年(1720)4代藩主松平定直の子定章が桑村郡と越智郡の一部を分知されて松山新田藩を立藩しました。しかし2代松平定静が本藩を継承することになり、廃藩となりました。
幕末期の13代藩主松平勝成は、水戸徳川家からの養子(徳川斉昭の甥)であり、将軍徳川慶喜とは従兄弟という非常に近い血縁関係にありました。
よって松山藩は幕府方として奔走します。「長州征討」にでは主力として活躍しますが、占領した周防大島では松山藩兵が住民に乱暴狼藉を行っており、このことが後に新政府(とくに長州藩閥)からの苛烈な報復へと繋がっていきました。
慶応4年(1868)の「鳥羽・伏見の戦い」では大坂梅田方面の警備に当たっていましたが、徳川慶喜が江戸に引き上げたと知ると帰国。「朝敵」として松山藩追討の決定が下されました。
「朝敵」となった松山藩は、同年1月27日松山城を明け渡して土佐藩の占領下に置かれました。
同年5月、松山藩は「朝敵」の赦免と引き替えに、15万両を朝廷に献上することを命じられ、財政難の中これを受け入れ、加えて「松平」から旧姓「久松」に復するよう命じられています。
| 藩庁 | 松山城(松山市) 連郭式平山城:重要文化財 | |
| 江戸屋敷 | 上屋敷(港区西新橋3丁目) 中屋敷(港区三田2丁目:大隅公園辺り) 下屋敷(新宿区戸塚町)(品川区戸越2丁目) |
|
| 石高(表高) | 15万石 | |
| 江戸城控間 | 溜間 | |
| 格付け | 城主 | |
| 爵位 | 伯爵 |
■松山藩の歴代藩主
| 久松松平氏 | 家紋:三つ葉葵 本姓:称・清和源氏 |
||
| 菩提寺:浄土宗大林寺 (松山市) | |||
| 代数 | 氏名 | 官位 | 在職 |
| 1 | 松平定行 (さだゆき) |
従四位下・ 侍従 |
寛永12年(1635) ~ 万治元年(1658) |
| 2 | 松平定頼 (さだより) |
従四位下・ 隠岐守 |
万治元年(1658) ~ 寛文2年(1662) |
| 3 | 松平定長 (さだなが) |
従四位下・ 侍従 |
寛文2年(1662) ~ 延宝2年(1674) |
| 4 | 松平定直 (さだなお) |
従四位下・ 侍従 |
延宝2年(1674) ~ 享保5年(1720) |
| 5 | 松平定英 (さだひで) |
従四位下・ 隠岐守 |
享保5年(1720) ~ 享保18年(1733) |
| 6 | 松平定喬 (さだたか) |
従四位下・ 侍従 |
享保18年(1733) ~ 宝暦13年(1763) |
| 7 | 松平定功 (さだなり) |
従五位下・ 隠岐守 |
宝暦13年(1763) ~ 明和2年(1765) |
| 8 | 松平定静 (さだきよ) |
従四位下・ 侍従 |
明和2年(1765) ~ 安永8年(1779) |
| 9 | 松平定国 (さだくに) |
安永8年(1779) ~ 文化元年(1804) |
|
| 10 | 松平定則 (さだのり) |
従四位上・ 左近衛権少将 |
文化元年(1804) ~ 文化6年(1809) |
| 11 | 松平定通 (さだみち) |
従四位下・ 侍従 |
文化6年(1809) ~ 天保6年(1835) |
| 12 | 松平勝善 (かつよし) |
従四位下・ 左近衛権少将 |
天保6年(1835) ~ 安政3年(1856) |
| 13 | 松平勝成 (かつしげ) |
従四位上・ 左近衛権少将 |
安政3年(1856) ~ 慶応3年(1867) |
| 14 | 松平定昭 (さだあき) |
従四位下・ 左近衛権少将 |
慶応3年(1867) ~ 慶応4年(1868) |
| 15 | 松平勝成 (かつしげ) |
従四位下・ 左近衛権少将 |
慶応4年(1868) ~ 明治2年(1869):再任 |
■松山藩の家臣団
初代松平定行は掛川、桑名と加増転封に伴い家臣を次々召し抱え、松山へは4万石の加増により入封し、 蒲生家旧臣や浪人を召し抱えました。
軍事面の組織である軍方は、家老を大番頭(実践部隊長)として6部隊を編成していましたが、承応元年からは番頭を実践部隊長として10組編成となりました。 これら10組部隊のほかに、歩行組・弓組・鉄砲組などの実践部隊が組織されていました。
行政面の組織である役方は、以下のように分れています。
「幕末松山藩御役録 安政六年」より上級武士の一部を見てみます。
家老 水野・服部・竹内・菅・奥平 国政にあたる
大名分 長沼・津川・竹内・稲川・奥平 家老を輩出する名門の家格
中老 日下部・小出・中川・穂坂・遠山 大番組頭という
御番頭14家 奉行6家 用人7家 奏者蕃10家
無役組頭4家 大小姓頭6家 寄合大小姓頭3家 進物番頭2家
中奥筆頭3家 側役7家 江戸留守居2家 大賄2家
⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)
■松山藩の家臣
『明暦松山御支配帳』より藩士家名
| あ) | 安藤・天草・相田・粟山・荒川・有馬・荒木・阿部・浅村・厚木・天野・浅山・明星・荒井・渥美・
浅井・青山・青地・青野・赤畑・秋山 |
| い) | 生田・岩瀬・稲澤・伊藤・池内・石原・石橋・井上・石塚・飯田・犬塚・飯塚・伊奈・石田・猪田・
一色・伊賀・石丸・市川・石河・入江・石成・市田・今井・犬行・岩堀・犬引・飯島・石貝・板倉・岩井・石榑・生野・乾
|
| う) | 宇佐美・内山・浦野・上坂・宇野 |
| え) | 餌指 |
| お) | 奥平・大洞・小川・尾嶌・大橋・岡部・大脇・大野・落合・岡田・小笠原・尾崎・大河原・太田・大西・
岡本・奥田・大塚・小野木・尾池・大澤・大原・奥村・小田原・岡部・大崎・大沢・奥川・尾関・大鼓・岡・大崎・大森・小田
|
| か) | 梶川・神山・片山・神田・河田・神谷・片岡・春日・梶・柿・河合・加田・勝田・梶原・加藤・柏原・
川手・河原・門屋・門山・川野・柿波・金田・金原・河嶋・神尾・金子・川上 |
| き) | 木曽・木戸・木本・木原・北野・北尾・岸本・北村・菊池・岸・吉良 |
| く) | 黒田・日下・倉知・久米・栗原・倉地・黒屋・黒川・倉根・窪田・忽那 |
| こ) | 高力・小出・小崎・小森・駒木根・小林・小山・児村・近藤・小菅・小寺 |
| さ) | 佐久間・坂辺・坂本・寒川・佐橋・坂倉・佐嶋・澤田・佐藤・佐伯・斎藤・佐川 |
| し) | 篠瀬・榛葉・下村・白川・柴・上代・進藤・白井・新海・斎藤・塩田・清水・渋谷・嶋田・柴田・椎・
篠田・柴山・敷屋・篠崎・篠原・塩穴・正阿弥 |
| す) | 菅・砂川・菅谷・菅沼・杉崎・杉山・杉田・杉谷・杉村・杉浦・鈴木・須藤 |
| せ) | 瀬田・関・関井・千波 |
| そ) | 祖父江 |
| た) | 館・田村・竹中・滝・高田・田中・竹内・高木・高内・只浦・高橋・竹村・高徳・田嶌・谷・田辺・
高澤・多賀・高崎・高野・高浜・高山・玉滝・田木・田坂 |
| つ) | 津川・佃・津田・嶌田・柘植・土屋・恒吉・土田・月岡・土川・都築・常沢・辻 |
| て) | 寺田・寺尾 |
| と) | 遠山・戸田・豊田・戸崎・東条・伴・戸塚・外池・豊嶌・戸倉・徳田・飛田・友田・徳永・冨田 |
| な) | 中村・長沼・成瀬・中嶌・長坂・内藤・中野・中川・中路・永田・永野・南部・中山・永戸・中間
|
| に) | 新美・丹羽・新村・新延・西村・新嶌・西山・新田 |
| の) | 野田・野瀬・野中 |
| は) | 長谷川・蜂須賀・原田・林・服部・早水・馬場・蜂屋・橋本・長谷・萩原・波賀・早川・浜田 |
| ひ) | 久松・桧垣・桧山・広瀬・菱田・平野・樋口・東・日瓜・平田 |
| ふ) | 福田・深見・福本・福富・二神・深田・古沢・藤村・布施・古川・藤川・船橋 |
| ほ) | 穂坂・堀・本郷・細川・星野 |
| ま) | 松平・松下・松本・町野・松田・松本・丸山・松井・松野・真野・増田・松嶌・松半・松岡・牧・槙木 |
| み) | 三戸・水野・三田・三宅・皆川・神子田・三好・満田・水谷・宮川・三田村・水越・嶺沢・三橋・宮原・
宮内・美濃部 |
| む) | 村瀬・室節・村越・村尾・村井・武藤・村上・村田・室野・村岡 |
| め) | 目良 |
| も) | 森・森岡・門番・守田 |
| や) | 山路・薬丸・安田・矢嶌・山本・安井・柳田・柳瀬・山辺・八束・山内・山部・安栖・山崎・八木・矢野・
山室・柳原・山下・山田・山川・山家 |
よ) | 吉田・吉村・吉川 |
| わ) | 渡部・鷲野 |













