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久留米藩家臣のご先祖調べ

 豊臣時代、小早川秀包が久留米城主でしたが、「関ヶ原の戦い」で西軍に与したため改易除封となります。 次いで三河国岡崎城主田中吉政が筑後一国を与えられ柳川城に入り、久留米城は廃城となりました。 元和6年(1620)田中氏は無嗣断絶により改易となると、丹波国福知山藩主有馬豊氏が加増を受けて、久留米藩21万石の領主として入封しました。
 有馬氏は、播磨国守護赤松則裕の子義裕が摂津国有馬郡を領し、有馬氏を名乗ったことに始まります。 しかし七代有馬則頼の代には所領を失い、没落していました。しかし羽柴秀吉の中国攻めで活躍したことで、取り立てられ1万5千石を給されました。 その子有馬豊氏は豊臣政権では姉婿である遠江国横須賀城主渡瀬繁詮の家老を勤めましたが、渡瀬繁詮が改易となると横須賀3万石を継承しました。 秀吉死後は父則頼とともに徳川家康に接近し、徳川家の御伽衆として遇され、家康の養女蓮姫を妻に迎えました。
 徳川方として「関ヶ原の戦い」で武功をあげると、父有馬則頼は有馬氏縁故・摂津有馬郡に三田藩2万石を与えられます。 有馬豊氏は丹波国福知山藩6万石への加増転封となり、父則頼歿後は三田藩の所領が加わりました。そしえ「大坂の陣」でも戦功をあげます。
 元和7年(1621)は田中氏の改易を受けて、有馬豊氏は久留米藩21万石を就封しました。略して「米藩」と呼ばれます。 しかし入封当初は、廃城となった久留米城の修復と城下町の整備から始まり、筑後川の河川工事、加えて「島原の乱」への出兵もあり、久留米藩の財政は早くも苦境に陥っています。 城郭と城下町が体裁を整えるようになったのは4代有馬頼元の代になってからでした。

 7代藩主有馬頼徸は関流算術を修めた「算学大名」として知られ、当時最高水準の和算書『拾璣算法』を著しています。 しかし有馬頼徸については評価が分かれます。頭脳明晰で有職故実や法令の知識に優れており、幕府から増上寺御火消役を任じられ、将軍が狩猟で仕留めた鶴を拝領できる「国鶴下賜」を3度も受けていた名君といわれます。 一方、深刻な藩財政の対策には領民への苛税で補い、結果領民10万余人が城下に押し寄せる「宝暦一揆」が起こっています。

 幕末期、英邁な10代藩主有馬頼永が25歳の若さで歿し、弟の有馬頼咸が第12代藩主となります。 頼咸に就封すると、藩政を巡り家臣の対立が激しさを増します。嘉永5年、真木和泉が指導する尊王攘夷派「外同志」が、公武合体を主張する藩政指導部の「内同志」の排除を試みますが失敗し、 真木和泉ら尊王攘夷派は弾圧されることになります。その後、真木和泉は脱藩して京へ上り、尊王攘夷派の軍師的立場となって活動します。
 以降久留米藩の中枢は、佐幕・公武合体派(門閥派および「内同志」)が占め、家老有馬監物今井栄らが開国開明路線をとり、鉄砲の生産と洋式軍制の採用、洋式船の購入と海軍の創設、殖産興業をはかり、富国強兵政策を推し進めました。 ところが慶応4年、決起にはやる尊王攘夷派の少年らが、参政不破正寛を暗殺し、藩論は一夜にして変わります。復讐に燃える尊王攘夷派の水野正名が政権をとると、 佐幕・開明派の藩首脳は排除・粛正され、時代錯誤の「封建堅持・攘夷実行」を掲げ、反対する者を次々粛正しました。ついには「開国和親」の明治政府転覆を計画しましたが、その企ては露見し阻止されました。(久留米藩難事件)

久留米藩
  藩庁 久留米城(久留米市)  
  江戸屋敷 上屋敷(港区三田1丁目:済生会中央病院) 
中屋敷(港区高輪3-9:高輪郵便局)
下屋敷(港区高輪4-10:高輪京急H)
 
  石高(表高) 21万石
  江戸城控間 大広間
  藩校 明善堂 寛政8年設立
  格付け 国主
  爵位 伯爵

久留米藩有馬家の歴代藩主
有馬氏 家紋:有馬巴
本姓:村上源氏赤松氏流
菩提寺:臨済宗妙心寺派梅林寺
 (久留米市京町)
代数 氏名 官位 在職
有馬豊氏
(とようじ)
従四位下・
侍従
元和6年(1620) ~
寛永19年(1642)
有馬忠頼
(ただより)
従四位下・
侍従
寛永19年(1642) ~
承応4年(1655)
有馬頼利
(よりとし)
従四位下・
玄蕃頭
承応4年(1655) ~
寛文8年(1668)
有馬頼元
(よりもと)
従四位下・
侍従
寛文8年(1668) ~
宝永2年(1705)
有馬頼旨
(よりむね)
従四位下・
筑後守
宝永2年(1705) ~
宝永3年(1706)
有馬則維
(のりふさ)
従四位下・
侍従
宝永3年(1706) ~
享保14年(1729)
有馬頼徸
(よりゆき)
従四位下・
左少将
享保14年(1729) ~
天明3年(1783)
有馬頼貴
(よりたか)
従四位下・
左少将
天明3年(1783) ~
文化9年(1812)
有馬頼徳
(よりのり)
従四位下・
左少将
文化9年(1812) ~
天保15年(1844)
10 有馬頼永
(よりとう)
従四位下・
侍従
天保15年(1844) ~
弘化3年(1846)
11 有馬頼咸
(よりしげ)
従四位下・
左中将
弘化3年(1846) ~
明治4年(1871)

久留米藩の家臣団
 藩祖有馬豊氏は加増転封を繰り返し、その都度家臣を増やします。よって家臣団は仕官の経緯によって次のように分けられます。 渡瀬家から引き継いだ「横須賀衆」、父有馬則頼の三田藩から引き継いだ「梅林公御代衆」、豊氏が福知山で召し抱えた「丹波衆」、 そして久留米で新たに召し抱えた家臣などです。
 久留米での新規召抱えには元広島藩主福島正則の遺臣、前藩主田中家の遺臣、元福岡藩家老栗山大膳の陪臣もいました。
 派閥をつくる家臣団をまとめ、融和されるのは容易ではなく、家老間の確執も多かったようです。
 久留米藩の家格は以下のように分れています。
 家老・家老脇・番頭が上士、用人・馬廻組・大小姓・竹の間・右筆までが中士、中小姓・徒士が下士です。その下には足軽、水主がいました。
 また農町人でも銀百貫目を献上すれば浪人格の身分が与えられ、苗字帯刀が許されました。
      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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久留米藩の家臣
文久二年『久留米藩分限帳』より藩士家名
あ) 有馬・安藤・荒巻・荒木・秋山・赤松・浅尾・浅田・綾野・青木・雨森・荒川・明石
い) 稲次・生田・伊福・伊吹・猪田・伊藤・井上・磯部・一宮・石野・今井・稲富・稲津・飯田・石橋・池田・池口・池尻・ 石井・石田・石塚・今村・池松・磯野・石黒・岩本・入江・板垣・稲葉・伊部・石原
う) 上田・上原・雲林院・浦井・宇治田・牛島・鵜飼・宇高・梅津・宇部・上月・鵜川・上野・内田
え) 江崎・江口・江頭・遠藤
お) 岡村・岡田・尾関・淡河・小倉・大庭・大河原・小河・大塚・岡本・小沢・岡野・大島・大里・小田村・大森・大石・ 荻野・大野・大崎・大木・押田・太田・小野・大津山・太田黒

か) 片岡・笠井・神崎・梯・川上・狩野・樺島・可児・梶村・加藤・金子・兼吉・川野・河原・瓦林・加田・川村・河崎・ 金田・蒲池・川原
き) 岸・北川・北村・行徳・喜多村・衣笠・木庭
く) 栗生・栗木・久保・黒岩・桑原・国友・栗山・草野・久野・朽網・熊本
こ) 小峯・古賀・郡・香西・小林・後藤・越野・権藤・小森田・駒田・小松

さ) 坂本・佐久間・榊・佐藤・佐々・澤・実藤・佐々木・酒井田・澤田・篠本・西郷・齋藤・佐世・佐田・佐竹・里村・猿木・ 佐野
し) 下村・島・渋川・篠田・下坂・新荘・清水・柴田・渋田・白江・城・志賀・柴川・重富
す) 杉山・菅原・菅・杉・鈴村・杉原・菅谷・鈴木・首藤
せ) 関・仙波・千盤・妹尾
そ) 宗・園川・園田

た) 田代・竹井・谷田・高瀬・多賀・高橋・田中・玉井・高木・高村・田村・竹中・滝・高原・武田・立石・田辺・玉置・宝田・ 田山・垂井・武谷・竹下・高田・竹重・高松
つ) 土田・津田・柘植・辻・坪池・津留・土屋・築山・堤藤・堤
て) 泥堂
と) 徳田・十市・鳥取・鳥居・富安・戸田・富島・豊田・徳永・友永・遠山・道家・伴原

な) 中村・永田・中島・中山・中川・中野・仲井・長野・中田・永野・長江・楢崎・長澤・中・永松
に) 西尾・新美・西村・西原・西川・丹羽
の) 野田・野崎・野村・野口

は) 服部・早川・伴・速水・林田・原・馬場・浜田・畑・長谷・林・端山・長谷川・早崎・花田
ひ) 久徳・樋口・平田・東原・平木・平川・平塚・平山・平佐・日高・日笠・日比・土方・広川・平井
ふ) 不破・古荘・藤田・福永・古田・古川・福井・藤吉・藤口
ほ) 堀江・本荘・堀尾・保々・本戸・星野・細見

ま) 馬淵・円岡・松田・松本・真里谷・松下・松岡・松林・松崎・真木・牧野・前田・前野・松山・松石・万年・松延
み) 水野・三澤・水島・宮内・水間・三浦・三谷・宮川・三原・宮原・水田
む) 村上・村井・村瀬・武藤・村尾
も) 森田・森・元田・本村・森崎

や) 山田・山本・山村・山口・安元・山崎・山中・薮・山路・山鹿・安武・八幡原・山脇・安永・弥永・八島・矢野・山脇・ 保田・矢加部
ゆ) 結城・弓場・湯山
よ) 吉田・吉村・吉見・余田・吉井・吉和・余語・吉富
わ) 渡辺・渡瀬・鷲頭

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