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加賀藩家臣のご先祖調べ

 慶長5年(1600)「関ヶ原合戦」後、 前田利長は加賀・能登・越中の3か国119万石余を与えられ、日本最大の加賀藩が成立します。 男子に恵まれなかった前田利長は、異母弟の前田利常(利家の四男)に加賀藩主を譲り、富山城に隠居しました。その後富山城が焼失したため高岡城へ移っています。
 寛永8年(1631)、3代将軍徳川家光は大御所徳川秀忠病中の行動に謀反の嫌疑をかけ、「前田征伐」を計画します。前田利常は嫡男前田光高と共に江戸に上り、重臣横山康玄の懸命な陳述もあり疑いを晴らすことができました。(寛永の危機)
 寛永16年(1639)、前田利常は隠居に際して、次男前田利次富山藩10万石を、三男前田利治大聖寺藩7万石を分封し、加賀本藩は102万5千石となります。
 4代藩主前田綱紀は藩政前期の名君と称えらる藩主です。まず新田開発や農政改革に着手し、十村制度改作法の整備・生活困窮者の救済施設御救い小屋の設置、 家中においては人持組頭(加賀八家)の制度を定めています。また藩内に学問・文芸を奨励し、書物奉行を設けて工芸の標本、古書の多くを編纂・収集し、東寺の東寺百合文書の保存にも尽力しています。 特別名勝兼六園の造営は前田綱紀が自身の別荘蓮池御殿の周辺を庭園化したことに始まります。
 元禄2年(1689)には5代将軍徳川綱吉から御三家に準ずる待遇を与えられます。

 享保8年(1723)、前田綱紀の隠居により前田吉徳が5代藩主を就封します。この頃の加賀藩は綱紀の改革により、藩政は安定していました。 しかし大藩である故に出費も大きく、綱紀の治世末期には藩財政の逼迫は明らかになっていました。そこで吉徳は足軽出身の大槻伝蔵を重用して藩財政改革を断行し、一定の成功をあげます。 しかし快く思わない守旧派は、延享2年(1745)に藩主吉徳が死去すると、大槻伝蔵を失脚させました。

 前田吉徳の後、長男前田宗辰が6代藩主となりますが翌年に死去し、以後重熙(二男)・重靖(五男)・重教(七男)・治脩(十男)と5代にわたり、兄弟で藩主の座を継承していきます。 すなわち短命な政権が続くことになります。相次ぐ藩主の交代は藩政の停滞を招き、藩財政は一層苦しくなっていきます。
 延享5年(1748)、7代藩主前田重熙と浄珠院(前藩主生母)への毒殺未遂事件が発覚し、主犯の真如院(5代藩主吉徳の側室)と大槻伝蔵が殺されました。(加賀騒動)

 幕末期の加賀藩は12代藩主前田斉泰の治世となります。
 前田斉泰初期の治世は門閥譜代の奥村栄実が主導する重農主義的・保守的な藩政改革が行われていました。 加賀藩は異国船からの海防や藩財政の悪化などにより、藩政改革は急務となっていました。奥村歿後、代わって革新派(黒羽織党)が登用され藩政の要職を占めるようになります。 黒羽織党政権は洋式軍制を導入し、新田開発を進め、藩内産業育成のため農村部の在郷商人を重用し、藩特産品の流通・販売を藩営(産物方設置)としました。 しかし莫大な藩債の返済や、海防支出の増加による財政難は容易に改善できませんでした。
 これらの改革は守旧派藩士や、既得権益を失う御用商人の反発を受けて失敗します。その反動で保守的勢力が政権を握りますが、安政5年2月の飛越地震と「安政の大一揆」により保守勢力は衰退し、 再び黒羽織党が政権の中枢を担うようになります。しかしこの改革も失敗に終わっています。

 元治元年(1864)5月、御所警備を命じられた加賀藩は嫡男前田慶寧にその役目を与えました。 同年7月「禁門の変」がおこると、前田慶寧は長州藩と幕府の斡旋を試みますが失敗、病を理由に近江国海津(加賀藩領)に退京してしまいます。 結果として長州に内通したとの疑いを受けることとなり、これに激怒した前田斉泰慶寧に金沢で謹慎を命じ、側近の松平康正や大野木仲三郎に切腹を命じています。
 この処罰を契機に藩内の尊皇攘夷派武士たちは弾圧され、時勢を見れる有能な藩士を育てれなかった加賀藩は以後他藩に遅れを取ることとなります。
 「鳥羽・伏見の戦い」が勃発した当初は佐幕派色を鮮明にしていましたが、幕府軍が大敗すると一転して新政府軍に帰順し、つづく北越戦争には新政府軍として参戦しています。

加賀藩
  藩庁 金沢城(金沢市)  
  江戸屋敷 上屋敷(文京区本郷:東京大学本郷学舎) 
中屋敷(文京区駒込) 
下屋敷(板橋区板橋)
 
  石高(表高) 102万5千石
  江戸城控間 大廊下
  格付け 国主
  爵位 侯爵

加賀藩前田家の歴代藩主
前田氏 家紋:加賀梅鉢
出自:菅原氏
菩提寺:曹洞宗宝円寺
 (金沢市宝町)
代数 氏名 官位 在職
前田利長
(としなが)
従三位・
権中納言
慶長5年(1600) ~
慶長10年(1605)
前田利常
(としつね)
従三位・
権中納言
慶長10年(1605) ~
寛永16年(1639)
前田光高
(みつたか)
正四位下・
左近衛権少将
寛永16年(1639) ~
正保2年(1645)
前田綱紀
(つなのり)
従三位・
肥前守
正保2年(1645) ~
享保8年(1723)
前田吉徳
(よしのり)
正四位下・
左近衛権中将
享保8年(1723) ~
延享2年(1745)
前田宗辰
(むねとき)
正四位下・
左近衛権中将
延享2年(1745) ~
延享3年(1746)
前田重煕
(しげひろ)
正四位下・
左近衛権中将
延享3年(1746) ~
宝暦3年(1753)
前田重靖
(しげのぶ)
正四位下・
左近衛権少将
宝暦3年(1753) ~
宝暦3年(1753))
前田重教
(しげみち)
正四位下・
左近衛権中将
宝暦4年(1754) ~
明和8年(1771)
10 前田治脩
(はるなが)
従三位・
参議
明和8年(1771) ~
享和2年(1802)
11 前田斉広
(なりなが)
正四位下・
肥前守
享和2年(1802) ~
文政5年(1822)
12 前田斉泰
(なりやす)
正二位・
権中納言
文政5年(1822) ~
慶応2年(1866)
13 前田慶寧
(よしやす)
従四位・
参議
慶応2年(1866) ~
明治4年(1871)

加賀藩の家臣団
 前田利家は一代で約80万石の大大名に成長します。 それにともない家臣団が急膨張し、尾張時代・越前府中時代に召抱えられた本座者(譜代家臣)の荒子衆越前衆に加えて 加賀・能登・越中から新座者と呼ばれる家臣が新たに召抱えられました。 そして慶長期の家臣団再編を経て3代前田利常の下で加賀藩家臣団の土台が確立します。

 加賀藩の家臣団は七つの身分序列があります。
人持組頭8家…1万石以上の禄高を持ち、藩の重臣として藩政に関わりました。
  本多家・長家・横山家・前田対馬守家・前田土佐守家・奥村河内守家・
  奥村内膳家・村井家
人持…数名の騎馬士を従える武将の意味で、奉行職や奏者番・若年寄、時には家老を
 勤めることもあります。特権的な上層家臣で約70家ありました。
平士…大半は馬廻組小姓組(藩主に近侍する親衛隊)に編成されます。
 馬廻士は平士の60%を占め、藩主直属の旗本軍の基幹をなします。
 江戸時代後半になると、組編成がなされ平士のなかに組頭同並物頭同並
 三品の士平士並という階層が生じました。
 藩行政を担当する諸奉行の多くは平士から登用されました。
 平士並平士の部屋住みの二三男に与えられました。
与力…騎馬士、平時は事務官である御歩・足軽の上に置かれた実務官僚でした。
御歩本組御歩六組定番御歩組が中核を占め、御歩六組の主な職務は藩主駕寵先の  警衛、提灯裁許・鷹方御用・御馬具飼料裁許などでした。
 定番御歩組は二ノ丸御広式鎖口番・金谷御広式鎖口番ほか、その横目や作事所御歩
 横目・産物方御用など多方面にわたりました。
 御歩以上が士分で、平士以上は藩主との御目見が出来、
 与力以下は御目見が出来ませんでした。
 御歩と同じ待遇をうけた御歩並には、算用者・料理人・御大工・穴生・御壁塗・
 御用町医師・御小人頭・普請会所下裁許・町下代・御茶堂小頭・御坊主小頭など
 多種多様な専門技術者・職人が含まれました。
 御歩並以上の士分の家数は2300~2400人とされ、明治2年(1869)時の
 御歩以上の士分人数は3607人でした。

足軽…平時では書記・経理などの事務的労働や中間管理的労務を任されました。
 士分ではありませんが、努力実力次第で御歩並に昇進でしました。
 苗字を許されて袴を着用でき、一刀(2尺以内)を指すことが出来ました。
 原則として一代限りの召抱えでしたが、父の職務を継ぐ例が少なくなく、
 世襲する者もいました。百姓・町人であっても、血縁のある足軽家の推挙により
 足軽になる例も多く、養子縁組によって百姓・町人が登用されました。
 明治2年(1869)時の足軽人数は6246人でした。
中間・小者…運搬・土木人足など肉体労働を担当しました。苗字は許されず、
 公式の場のみ帯刀が許されました。
 明治2年(1869)時の2700人でした。

 この他、直臣藩士の家来である陪臣がいました。明治2年(1869)時で7500人以上の陪臣がいたとされます。

      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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加賀藩の家臣
『加賀藩組分侍帳』(文久初年)より藩士家名  『加賀藩組分侍帳』~金沢市図書館

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に) 仁岸・西尾・西坂・西永・西村・丹羽
ぬ) 布目
ね) 根来
の) 野坂・野崎・野尻・野田・野村

は) 萩原・橋爪・橋本・土師・端・長谷川・羽田・蜂谷・服部・濱名・早川・林・ 馬場・伴・半田・原・原篠・原田
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