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今治藩家臣のご先祖調べ
今治藩は慶長5年(1600)「関ヶ原合戦」の勲功により藤堂高虎が加増を受けて、20石で立藩しました。
慶長7年(1602)に今治城と城下町建設に着手し、慶長9年(1604)に完成しました。
慶長13年(1608)、藤堂高虎が津藩に移封し、後を受けて今治城主となった藤堂高吉が、寛永12年(1635)伊賀国名張に領地替えとなると、
代わって伊勢長島城主松平定房が3万石で入封しました。同時に兄松平定行は伊予松山藩に入封しています。
松平定房の祖母は、徳川家康の生母於大の方(おだいのかた)です。徳川家康の異母弟系統になり、この系統を久松松平家といいます。
以後、久松松平家の治世が幕末維新期まで続きます。
寛文5年(1665)、藩主松平定房は江戸城大御留守居役に任ぜられたため、その役料として1万石を加増され、4万石となりました。
延宝4年(1676)、3代藩主松平定陳の代、父定時の遺言に従い、弟松平定昌に5千石を分知し、3万5千石となりました。
文化14年(1817)、7代藩主松平定剛は藩校克明館を創設しています。
幕末期の10代藩主松平定法軍備を洋式に改革し、沿岸に砲台を建造するなど、開明的・先進的でした。時勢にも敏感で、積極的に情報収集に努め、佐幕派・勤王派の周旋に尽力しました。
「第二次長州征伐」で幕府方が敗退すると、薩長側に付くことを決断し、慶応4年(1868)「鳥羽・伏見の戦い」では新政府に従い京に出兵し、続く「戊辰戦争」では藩兵を奥州征伐にまで送っています。
宗家伊予松山藩が佐幕派を通したこととは対象的です。
| 藩庁 | 今治城(今治市) 輪郭式平城(海城) | |
| 江戸屋敷 | 上屋敷 小石川御門内(千代田区神田三崎町) 中屋敷 清洲橋通り(台東区三好) 下屋敷 小石川播谷町広小路(文京区白山) |
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| 石高(表高) | 3万5千石 | |
| 江戸城控間 | 帝鑑間 | |
| 格付け | 城主 | |
| 爵位 | 子爵 |
■松山藩の歴代藩主
| 久松松平氏 | 家紋:星梅鉢 本姓:称・清和源氏 |
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| 菩提寺:浄土宗松源院 (今治市) | |||
| 代数 | 氏名 | 官位 | 在職 |
| 1 | 松平定房 (さだふさ) |
従四位下・ 侍従 |
寛永12年(1635) ~ 延宝2年(1674) |
| 2 | 松平定時 (さだとき) |
従五位下・ 美作守 |
延宝2年(1674) ~ 延宝4年(1676) |
| 3 | 松平定陳 (さだのぶ) |
従五位下・ 駿河守 |
延宝4年(1676) ~ 元禄15年(1702) |
| 4 | 松平定基 (さだもと) |
従五位下・ 美作守 |
元禄15年(1702) ~ 享保17年(1732) |
| 5 | 松平定郷 (さださと) |
従五位下・ 筑後守 |
享保17年(1732) ~ 宝暦13年(1763) |
| 6 | 松平定休 (さだやす) |
従五位下・ 河内守 |
宝暦13年(1763) ~ 寛政2年(1790) |
| 7 | 松平定剛 (さだよし) |
従五位下・ 壱岐守 |
寛政2年(1790) ~ 文政7年(1824) |
| 8 | 松平定芝 (さだしげ) |
従五位下・ 若狭守 |
文政7年(1824) ~ 天保8年(1837) |
| 9 | 松平勝道 (かつみち) |
天保8年(1837) ~ 文久2年(1862) |
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| 10 | 松平定法 (さだのり) |
従五位下・ 壱岐守 |
文久2年(1862) ~ 明治4年(1871) |
■今治藩の家臣団
今治藩の家臣団というのは、初代藩主松平定房の父である松平定勝から付属された家臣や、改易された大名家の元家臣(浪人)、 或いは他の大名家の家臣の次男・三男や、在地(今治)出身の者たちで構成されていました。
大きく分ける上士(給人)、下士(無足または徒)、御奉公人(世襲者と一代者)になります。 上士と下士がいわゆる士族になります。
上士から、家老・番頭・奏者番・奉行・江戸留守居などの重職が選ばれます。
下士は、目付・大賄・坊主頭・大船頭・祐筆・大門番など、実務方の責任者が多いです。
御奉公人の世襲者は小役人とも呼ばれ、実務方の補佐や実務者が多いようです。
御奉公人の一代者は中間・下男・陸尺御箱道具持・御手水主などがありました。
今治藩に郷士はなく、幕末期に藩に貢献した褒美として豪商・豪農が郷士扱いにされました。
明治になると、今治藩家臣団の家格は以下のように分れていました。
※明治2年(1869)「朝廷へ士族並卒人高御届如左」より
上士以上 109人
上士格以下 徒士格まで 254人
徒士格 町人 郷士格まで 16人
小役人 105人
卒 68人
歩兵 91人
中間 276人など、合計1100余人。
上士・下士の戸数は271戸ありました。
今治藩の俸禄は地方知行でなく、高1石につき1俵が支給されました。
当初は1俵が4斗5升入でしたが、藩財政難もあり享保年度に1俵が3斗5升入に減額され、寛延年度にはさらに減額されています。
⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)
■今治藩の家臣
『士族家禄帳』(明治5年頃)より藩士家名
| あ) | 荒川・朝山・芦野・青野・秋洲・尼子・明石・青山
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| い) | 井上・池内・池田・今村・池山・一色・岩城・石井・石原・磯山・今井・岩井・池上・岩崎・伊藤・石村
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| う) | 上野・宇野・上村 |
| え) | 江島 |
| お) | 岡本・岡部・小川・奥山・岡・大野・奥平・小澤・越智・岡崎・大塚・大関・小原・大日方・大澤・ 岡村
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| か) | 加藤・堅田・河上・河野・神谷・片岡・川野・亀田・柿原・川上
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| き) | 城所・木村・岸 |
| く) | 窪田・黒田・櫛部・櫛岡・黒川 |
| け) | 気田
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| こ) | 小寺・小泉・児玉・小島・小山・小池・小安 |
| さ) | 坂部・佐久間・佐藤・佐々木 |
| し) | 柴田・宍甘・白樫・白石・重松・重見
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| す) | 鈴木・末松・須知・砂田・周布野・菅・魲・須藤・杉村 |
| せ) | 関・仙波 |
| た) | 多賀・竹本・多功・高瀬・多羅・高木・谷口・瀧山・武田・丹下・武内・種橋・高山・田坂・高橋・玉井
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| つ) | 津田・堤・都筑 |
| と) | 戸塚・富島・戸祭・富田・豊田・徳丸・友田・鳥居 |
| な) | 永井・成瀬・中澤・中村・半井・中堀・長野・中野・長嶋・長尾・中山・中西
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| に) | 西山・西部・西尾 |
| の) | 野崎・野島 |
| は) | 服部・萩原・花井・原島・林・早川・橋田・羽倉 |
| ひ) | 久松・平岡・平野・檜垣 |
| ふ) | 深屋・二俣・福田・古土井・藤重・藤田・二橋 |
| へ) | 別府・別宮 |
| ほ) | 堀・星野 |
| ま) | 町野・町田・松原・松田・松本・松村 |
| み) | 三浦・三上・三宅・水野・三好・水谷・水澤・三田村
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| む) | 村越・村上・村川・村瀬 |
| や) | 山下・矢野・山路・矢部・山名・八木・山田・山本・保川・山崎 |
よ) | 善方・吉田 |
| わ) | 和田・渡邊 |













