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赤穂藩家臣のご先祖調べ
赤穂藩は播磨国姫路城主池田輝政の五男池田政綱が、元和元年(1615)赤穂城を居城に立藩したことに始まります。
ところが正保2年(1645)、池田輝興の代に不行跡により改易となり、代わって常陸国笠間藩より浅野長直が入部しました。
浅野長直は旧城の南に新たに赤穂城を慶安元年(1648)から13年をかけて築城し、新城完成にともない侍屋敷地・町屋が拡大整備しました。
元禄14年(1701)3月14日、3代藩主・浅野内匠頭長矩が江戸城中で高家衆筆頭の旗本吉良上野介義央を斬りつける刃傷事件を起こします。長矩は即日切腹、浅野家は改易と決まりました。
この報せは5日後に赤穂に届けられ、浅野家中は驚愕し大混乱に陥りました。籠城か切腹かの大評定の結果、4月19日幕府目付・代官の立会いのもと、龍野藩・備中足守藩に城を明渡し、浅野家中は離散することになりました。
そして翌元禄15年12月15日、赤穂浪士の吉良邸討入り事件に繋がっていきます。
浅野家改易後、代わって下野国烏山藩より永井直敬が入部しますが、5年後の宝永3年(1706)には信濃国飯山藩へ転封となります。
そして同年、備中国西江原藩より森長直が2万石で赤穂藩に入部し、廃藩置県までの12代165年間、森氏が赤穂藩主として在封しました。
藩庁 | 赤穂城(赤穂市) | |
江戸屋敷 | 屋敷(港区浜松町 JR浜松町駅) | |
石高(表高) | 2万石 | |
江戸城控間 | 栁間 | |
格付け | 城主 | |
爵位 | 子爵 |
■赤穂藩の歴代藩主
※歴代藩主の中で浅野氏と森氏を記します。
浅野氏 | 家紋:丸に浅野違い鷹の羽 本姓:清和源氏 |
||
菩提寺:曹洞宗花岳寺 (赤穂市加里屋) | |||
代数 | 氏名 | 官位 | 在職 |
1 | 浅野長直 (ながなお) |
従五位下・ 内匠頭 |
正保2年(1643) ~ 寛文11年(1671) |
2 | 浅野長友 (ながとも) |
従五位下・ 采女正 |
寛文11年(1671) ~ 延宝3年(1675) |
3 | 浅野長矩 (ながのり) |
従五位下・ 内匠頭 |
延宝3年(1675) ~ 元禄14年(1701) |
森氏 | 家紋:鶴の丸 本姓:清和源氏義隆流 |
||
菩提寺:曹洞宗花岳寺 (赤穂市加里屋) | |||
代数 | 氏名 | 官位 | 在職 |
1 | 森長直 (ながなお) |
従五位下・ 和泉守 |
宝永3年(1706) ~ 享保7年(1722) |
2 | 森長孝 (ながたか) |
従五位下・ 志摩守 |
享保7年(1722) ~ 享保8年(1723) |
3 | 森長生 (ながなり) |
従五位下・ 越中守 |
享保8年(1723) ~ 享保16年(1731) |
4 | 森政房 (まさふさ) |
従五位下・ 伊勢守 |
享保16年(1731) ~ 延享3年(1746) |
5 | 森忠洪 (ただひろ) |
従五位下・ 和泉守 |
延享4年(1747) ~ 明和6年(1769) |
6 | 森忠興 (ただおき) |
従五位下・ 山城守 |
明和6年(1769)~ 安永9年(1780) |
7 | 森忠賛 (ただすけ) |
従五位下・ 大内記 |
安永9年(1780) ~ 享和元年(1801) |
8 | 森忠哲 (ただあきら) |
従五位下・ 和泉守 |
享和元年(1801) ~ 文化4年(1807) |
9 | 森忠敬 (ただたか) |
従五位下・ 肥後守 |
文化4年(1807) ~ 文政7年(1824) |
10 | 森忠徳 (ただのり) |
従五位下・ 越中守 |
文政7年(1824) ~ 文久2年(1862) |
11 | 森忠典 (ただつね) |
従五位下・ 美作守 |
文久2年(1862) ~ 明治元年(1868) |
12 | 森忠儀 (ただのり) |
従五位下・ 越後守 |
明治元年(1868) ~ 明治2年(1871) |
■赤穂藩の家臣団
5万石の領知高をもつ浅野氏家臣団(元禄期)をみると、知行高100石以上の士分は142人おり、士分の合計は269人で、最高は知行高2000石です。
下級武士の足軽や中間などは790人、合計1059人の家臣がいました。その家族や家来を含めると、2000人から3000人の武家関係者が城下に住んでいたと考えられます。
領地高2万石の森氏家臣団は、文化13年(1816)「御在所御家中諸席」によると、知行700石の家老を筆頭に86人が知行取です。知行取は領地(知行所)を与えられる上級家臣です。 中小姓以下、御広間詰まで107人が藩庫から蔵米が支給される扶持米取です。その下に森赤穂藩では「下代」と呼ばれる扶持米取の下級武士が212人いました。合計405人となり、浅野氏時代の半分以下の家臣数です。
藩士には格式(席)・序列があり、それに応じて役職が決められます。
家の格式(席)は、藩主に御目見が許される士分(給人格)と徒士、御目見が出来ない下代(足軽・中間など)の大きく3つに分けられます。下代の多くは苗字を名乗れません。
文化13年(1816)「御在所御家中諸席」によると、森赤穂藩の家臣格式(席)は以下の通りです。
格式(席) | 家禄 | 人数 | |
家老 | 700石 | 5人 | |
年寄 | 200石 | ※天保3年分限 1人 | |
用人 | 150石~100石 | 4人 | |
給人 | 150石~50石 | 68人(医師8人含む) | |
御側 | 7人(茶道1人含む) | ||
御隠居・若殿様御側用人 | 2人 | ||
中小姓 | 18人 | ||
徒士 | 38人 | ||
持筒 | 9人 | ||
肝煎 | 13人 | ||
小頭 | 23人 | ||
広間詰 | 6人 | ||
下代ほか | 212人 |
⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)
■赤穂藩森家の家臣
『東西分限帳 慶応元年』より藩士家名
あ) | 青山・明石・荒木・秋山・安東・阿井・粟井・青木・有本・有年・荒尾 |
い) | 入江・伊藤・飯尾・斎・井関・岩村・井上・稲家・伊丹・石田・石原・今井・岩崎・石井 |
う) | 内田・魚住・浮田 |
え) | 江見・遠藤 |
お) | 大川・荻野・岡田・小川・荻・大屋・小高・大久保・奥村・大国・岡・大谷・
大河内・岡島・大塚・大賀・小国・奥藤・大西・尾上・沖田 |
か) | 各務・神吉・勝川・香取・兼松・片川・河野・河原・神崎・河内・金地・ 河端・笠原・鎌田・片山・神田・川嶋・加藤・陰山・金谷・川上・金井 |
き) | 北川・木元・北村・木村・木本・木山・木嶋 |
く) | 九鬼・桑原・熊谷・久保・黒田 |
こ) | 小牧・小林・近藤・小安・小成・小村・小寺 |
さ) | 斎木・酒井・笹岡・斎藤・佐々木・榊 |
し) | 島田・塩見・新根・軸原・清水・柴原 |
す) | 鈴木・須知・菅原・住田・杉山・菅沼 |
た) | 田中・竹内・侘美・谷・高田・田渕・高原・高橋・高松・田辺・高尾・高野・ 田原・辰巳・高川 |
ち) | 茶屋 |
つ) | 津田・都筑・辻・都志・次田・津野・堤 |
て) | 寺田・寺岡・寺沢 |
と) | 伴・百々・豊岡 |
な) | 中村・中島・中田・長沼・長尾・中山・長瀬・難波・鯰江・中黒・楢村・長安 |
に) | 西川・西宮・西山・西田・西本・西尾 |
の) | 延原・野呂・野山・野田・野村 |
は) | 橋村・林・原田・濱野・服部・萩原・濱本・濱屋・橋本 |
ひ) | 廣瀬・平井・平田・廣田・日置・平尾 |
ふ) | 藤田・藤本・藤井・福永・福原・船曳・藤野・福田・古田 |
ほ) | 細谷 |
ま) | 松本・松島・松原・前川・増井 |
み) | 宮地・宮部・水野・三木・三村・溝口・三宅・宮本・三村 |
む) | 村万・村上・村瀬・村山・室・室井・村田 |
も) | 森・守部 |
や) | 山村・山田・山根・八木・八尾・山崎・山内・山本・山口・柳田・柳原 |
ゆ) | 弓削・湯原 |
よ) | 吉田・吉村・横田・米倉・蓬・吉川 |
わ) | 渡辺・准田 |