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山口県のご先祖調べ

律令制における長門国周防国に相当します。
北部九州と同じく中国大陸や朝鮮半島に近いことから、外交上・防衛上重要視され、飛鳥時代には朝鮮式の山城が築かれ、、元寇の時には最前線司令部の長門探題が設置されました。

戦国期以前の山口県
 南北朝時代の周防国は、周防国府の在庁官人の末裔大内氏が守護職となります。大内氏は百済聖明王の後裔多々良氏族といいます。
 南朝方にあった大内弘世は、正平13年(1358)長門国守護厚東氏を滅ぼし、長門国の奪取に成功し周防長門に一大勢力圏を作り上げます。 足利尊氏は防長二国の守護職就任を条件に北朝側に引き入れ、大内弘世は室町幕府に帰服します。この頃、本拠地を山口に移しています。 以来、周防国長門国は代々大内氏が守護となります
 つぎの大内義弘の代には、将軍足利義満に近侍して、九州制圧や南北朝合一、山名氏の反乱「明徳の乱」の鎮圧などで多くの功績をあげ、和泉・紀伊・周防・長門・豊前・石見の6カ国を領する守護大名に急成長します。 さらに李氏朝鮮との貿易で経済基盤を確立し大内氏の最盛期を築き上げます。
 強大化した大内氏勢力に脅威を感じた将軍足利義満と対立し、鎌倉公方足利氏など反幕府勢力を結集して反乱を試みますが、応永6年(1399)堺で敗死(「応永の乱」)、周防長門国の守護職に削減され一時的に衰退しました。
 その後の大内氏は家督争いが続き、とくに兄弟間の家督争いは激しく円滑な継承が行われませんでした。
 「応仁の乱」が勃発すると、大内政弘は、西軍山名方に属して奮戦し、山名宗全歿後は事実上の西軍総大将に担がれます。 つぎの大内義興には京を追われた前将軍足利義稙を保護して入京、再び将軍に復帰させ、強大な軍事力を背景に管領代として幕府の影響力を持ちます。 そして大内義隆の代に再び西国随一の勢力を築き上げ戦国大名に名乗りがあげます。 明との交易を独占し、キリスト教布教を許可して宣教師や公家を積極的に保護したことから、文化的にも全盛期を迎えました。

 大内氏の全盛期は重臣陶晴賢(隆房)の謀反によって突然終焉を迎えます。 その陶晴賢(隆房)は弘治元年(1555)「厳島の合戦」で毛利元就に敗れ、毛利氏が西国戦国の覇者として登場します。
 山陰の尼子氏を滅ぼした毛利氏は北部九州と中国地方に勢力を拡大、織田信長・豊臣秀吉と対峙することになります。
 天下人となった豊臣秀吉に臣従した毛利輝元五大老となり、豊臣秀頼の補佐を託され、「関ヶ原合戦」では西軍総大将に担がれることになります。

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山口県の名字
 戦国期以前より勢力を振るった在地領主の一族をみてみましょう。
以下は山口県に発祥、もしくは所縁がある名字です。この苗字であれば比較的ルーツを探しやすいと思われます。
 まずは周防国です。
 守護大名大内氏は百済の聖明王の皇子琳聖太子の後裔多々良氏族とされています。大内氏からは次の名字が分出しています。
 問田・鷲頭・鰐石・得地・吉敷・野田・平野・黒川・江木・末武・矢田・益城・波野・馬場・小幡・柿並・高名・氷上・冷泉
 その他、大内氏家臣には笠井・相良・岡部・弘中・町野・沼間・安富・白松の諸氏があります。
 郡別にみてみます。
 大島郡には櫛辺氏長崎氏桑原氏沓屋氏河内山氏宇賀島氏がいました。
 玖珂郡には楊井氏が起こり、大山・高守・楊田・小川・豊田・中村の諸氏を分出しています。 その他に神代氏曽我氏椙杜氏杉氏があります。
 都濃郡には大内氏族の鷲頭氏筑前氏三奈木氏、守護代となった内藤氏野上氏がいました。
 佐波郡には多々良氏族の右田氏があります。
 吉敷郡には大内氏の他に、宇野氏、大内氏の重臣陶氏仁戸田氏三浦氏恒富氏吉田氏仁保氏があります。

 次に長門国です。
 厚狭郡からは守護職となった厚東氏が出て、吉部・池・宇賀・富永・河副・木村・秋吉の諸氏を分出します。その後は大内氏に敗れ、表舞台から姿を消します。 その他に箱田氏末富氏岩武氏があります。
 豊浦郡からは豊田氏が出て、菅田・八道・引地・稲光・宇奈井・新木・高山・田耕・麻生を分出しています。 その他に光富氏豊東氏青景氏三井氏、毛利氏流の厚母氏阿川氏があります。
 美祢郡には伊佐氏山中氏岩永氏があります。
 大津郡には矢部氏があります。
 石見国に接する阿武郡には波多野氏見島氏椿氏があります。

 山口県の苗字ベスト20位は以下の通りです。
1山本 2田中 3中村 4藤井 5原田 6伊藤 7西村 8林 9藤本 10河村
11山田 12松本 13藤田 14福田 15田村 16村田 17山根 18木村 19渡辺 20井上

西日本に多い苗字がランクインしていますが、稲作先進地域らしく「田」が付く苗字が7つランク入りしています。
第4位の藤井は広島県にも多く、第5位の原田は福岡県にも多くある苗字です。

江戸時代の山口県
 「関ヶ原合戦」で西軍総大将となった毛利輝元でしたが、輝元の隠居と長門・周防2カ国の減封処分で改易を免れます。
 その後幕命で三方を山に囲まれ、日本海に面した僻地・萩へ移り、外様大名長州藩が成立します。 家臣団には戦国大名毛利元就時代から仕えた家臣が多く、山陽・山陰地方の国人領主をルーツに持つものもあります。
 西国の大大名からの転落に、徳川幕府への怨みは根深く、新年拝賀の儀で家老が「今年は倒幕の機はいかに」と伺い、藩主が「時期尚早」と答えたとの逸話が残るほどです。 そして幕末期の尊皇攘夷・倒幕運動につながっていきます。
 支藩には岩国藩・徳山藩・長府藩があります。

 長州藩の領地支配は、領内を18行政区(宰判)に分けて、代官を置きました。
 代官の下役には、下級武士から勘定役・算用方・寺社方・山方・普請方・記録方などが配置されました。 代官は萩の郡奉行所に勤務していますが、春3月・秋9月・冬11月の3回任地へ出張し政務を処理しました。
 一方、現地の領民からは、大庄屋恵米方算用師の勘場三役が選ばれ、宰判の政務を補佐しました。 恵米方は大庄屋を補佐役、算用師は財政関係を担当します。

山口県の家紋
 山口県の使用家紋をみてみましょう。
『都道府県別姓氏家紋大事典 西日本編』によると、山口県の家紋ベスト10は次の通りです。
1位 片喰 2位 梅鉢 3位 藤 4位 鷹の羽 5位 菱・花菱
6位 桐 7位 茗荷 8位 蔦 9位 橘 10位 目結

 日本の十大家紋と比べると、木瓜紋、沢瀉紋、柏紋がランク外となり、かわりに菱紋、目結紋、梅鉢紋がランク入りしています。
梅鉢紋は菅原道真を祀る太宰府天満宮の神紋、天満宮信仰の影響もあると思われます。
目結紋は佐々木氏系の氏族が多いことと関係しているかもしれません。

山口県の寺院
 山口県の寺院をみてみましょう。
『全国寺院名鑑』(全日本仏教会寺院名鑑刊行会)によると、宗派別の割合は以下の通りです。
  県東部
(岩国)
県西部
(下関)
天台宗 1%以下 1%以下
真言宗 11% 10%
曹洞宗 22% 15%
臨済宗 5% 5%
浄土宗 13% 10%
浄土真宗 43% 48%
日蓮宗 1% 4%
その他 4% 7%
山口県全体をみると、1位の浄土真宗、2位の浄土宗で5割以上を占めています。これは福岡県と同じ傾向です。
浄土真宗の中身をみると本願寺派寺院が圧倒的におおく、西本願寺王国といえます。
禅宗系は曹洞宗寺院が2割近くあり、真言宗寺院を上回っています。

山口県の神社
 長門国一之宮は下関市に鎮座する住吉神社です。
 主祭神は住吉三神応神天皇武内宿禰命神功皇后建御名方命、 大阪と博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の1つに数えられています。
 三韓征伐の際、神功皇后に「我が荒魂を長門山田邑に祀れ」との神託があり、祭祀したのが始まりとされます。
 周防国一之宮の防府市に鎮座する玉祖神社です。
 主祭神を玉祖命(たまのおやのみこと)、岩戸隠れの際に勾玉を作った神様です。
 勾玉や管玉を作る玉造部が祖神玉祖命を祀るために創建したと考えられています。

山口県の人名録
 国立国会図書館のデジタルコレクションにある人名録を一部紹介します。
『日本全国商工人名録[明治25年版]』日本全国商工人名録 明治25年(1892)  職種別と商号
 『大日本篤農家名鑑 [第1冊]明治43年5月』大日本篤農家名鑑編纂所 明治43年(1910)  村名
『山口県商工人名録』山口県内務部 明治43年(1910)  職種別と所在地


※姓氏の出自や由緒には諸説あります。このサイトではすべてを網羅できておりません。  参考の一つにしてください。
 また出自や由緒、来歴についての質問は受けかねます。ご了承ください。

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