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忍藩家臣のご先祖調べ

 戦国時代末期、忍城は後北条氏に属す成田氏の居城でしたが、天正18年(1590)「小田原征伐」後に徳川家康の四男松平忠吉が入城します。 しかし松平忠吉が11歳と幼年のため、深溝松平家の松平家忠、次に小笠原吉次が実際の政務を代行しました。
 「関ヶ原の戦い」後、松平忠吉が尾張藩へ加増移封されると、忍藩は廃されて幕府領となります。
 寛永10年(1633)、老中松平信綱が3万石で忍藩に入封します。松平信綱は「知恵伊豆」と称され、幕府草創期を支えた人物です。 「島原の乱」では幕府軍の総大将として乱の鎮圧を成し遂げ、その勲功により寛永16年(1639)武蔵国川越藩に加増移封されました。

 代わって老中阿部忠秋が5万石で入封します。阿部忠秋もまた有能な人物で「細川頼之以来の執権」と評せられました。 松平信綱・阿部忠秋と続いて老中が就封したため、忍藩は「老中の藩」として政治的・軍事的にも重要拠点と見なされるようになります。 寛文3年(1663)までに8万石に領地を広げます。
 続く2代藩主阿部正能、3代藩主阿部正武、4代藩主阿部正喬、5代阿部正允、と歴代藩主が老中に就任しています。
 文政6年(1823)9代藩主阿部正権の代、幕府により忍藩・伊勢国桑名藩・陸奥国白河藩の三方領知替えを命じられ、陸奥国白河藩へ移封となります。

 代わって桑名藩より奥平松平家の松平忠堯が10万石で入封します。 石高に比べ家臣が多かったため早くから藩財政は逼迫し、そのうえ異国船の警備や自然災害などで幕末期には莫大な借財を負うことなります。
 「戊辰戦争」では松平忠誠が積極的に新政府軍に与し、東北戦線へ藩兵を送っています。

忍藩
  藩庁 忍城(行田市)  
  石高(表高) 5万石→10万石
  江戸城控間 帝鑑間
  格付け 城主
  爵位 子爵

忍藩の歴代藩主
    ※歴代藩主の中で阿部氏・松平氏(奥平)を記します。
阿部氏 家紋:丸に違い鷹の羽紋
本姓:孝元天皇の第一皇子  阿部大彦命の後裔
菩提寺:台東区蔵前 浄土宗西福寺
代数 氏名 官位 在職
阿部忠秋
(ただあき)
従四位下・
豊後守・侍従
寛永16年(16395) ~
寛文11年(1671)
阿部正能
(まさよし)
従四位下・
播磨守
寛文11年(1671) ~
延宝5年(1677)
阿部正武
(まさたけ)
従四位下・
豊後守・侍従
延宝5年(1677) ~
宝永元年(1704)
阿部正喬
(まさたか)
従四位下・
豊後守・侍従
宝永元年(1704) ~
寛延元年(1748)
阿部正允
(まさちか)
従四位下・
豊後守・侍従
寛延元年(1748) ~
安永9年(1780)
阿部正敏
(まさとし)
従四位下・
能登守
安永9年(1780) ~
天明7年(1787)
阿部正識
(まさつね)
従五位下・
豊後守
天明7年(1787) ~
寛政8年(1796)
阿部正由
(まさよし)
従四位下・
豊後守・侍従
寛政8年(1796) ~
文化5年(1808)
阿部正権
(まさのり)
文化5年(1808) ~
文政6年(1823)

松平氏(奥平) 家紋:奥平唐団扇紋
本姓:村上源氏赤松氏流
  或いは丈部姓有道氏流児玉氏一門片山氏の支流
菩提寺:行田市 臨済宗天祥寺
代数 氏名 官位 在職
松平忠堯
(ただたか)
従四位下・
民部大輔
文政6年(1823) ~
天保9年(1838)
松平忠彦
(ただひこ)
従四位下・
式部大輔・侍従
天保9年(1838) ~
天保12年(1841)
松平忠国
(ただくに)
従四位下・
下総守・少将
天保12年(1841) ~
文久3年(1863)
松平忠誠
(ただざね)
従四位下・
下総守・少将
文久3年(1863) ~
明治2年(1869)
松平忠敬
(ただのり)
従三位 明治2年(1869) ~
明治4年(1871)

忍藩の家臣団
 嘉永7年(1854)松平忠国公御代の忍藩の主要な役職を紹介します。

 家老は年寄ともいい、藩政のトップです。人数は10名程度。家禄500石以上。
 御用人は幕府の老中にあたり、実際の藩政を統轄します。人数は8名程度。家禄250石以上。
 町奉行は警察、刑事・民事訴訟の裁判、藩庁への公報など、主に町方の支配。人数は2名。家禄130石以上。
 勘定奉行は年貢など租税徴収、藩の財務、普請など。郡奉行も兼務し主に村方の支配。人数は4名。家禄110石以上。
 勘定頭は普請奉行も兼務し財政のほか、土木・水利も掌握。人数10数名。家禄100石以上。
 御目付は家中の風紀などの監察。人数は14名程度。家禄100石以上。
 御徒頭は御徒目付の下役がおり、藩士の支配など。人数は7名程度。家禄100石以上。
 御留守居は江戸と大坂に1人づつ置かれ、幕末維新期には京都にも。大坂留守居の役宅は堂島蔵屋敷。家禄130石以上。
 番頭は戦時の部隊長に相当する。人数は12名程度。家禄300石以上。騎兵隊である御馬廻(9番組)と統率する。
 物頭は戦時の歩兵・銃隊を統率する。人数は12名程度。家禄130石以上。足軽を統率する。
 御舟奉行は軍船・藩船を統轄、江戸湾お台場の防備を勤めた。人数は11名程度。家禄130石以上。
 御小姓頭は藩主身辺の用向を行なう側近。家禄200石以上。奥小姓は藩主身辺の世話。
 御広敷御用達は大奥の用向を行なう。
 寄合衆小普請は役職に就いてないもの。

 忍藩では家禄66石以上を士分とし要職の就き、切米取の下級武士はその下で実務にあたりました。 昇進する役職の過程や家禄は、親とほぼ同じです。

      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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忍藩松平家の家臣
『忍城主松平氏分限帳 嘉永七年』より藩士家名
あ) 荒瀬・新井・安西・足助・新居・荒木・青山・鮎川・浅井・安藤・青木・浅田・足立・相田・秋元
い) 市川・伊藤・生田・池田・家所・岩田・石田・市原・岩崎・一都・石坂・岩見・石垣・井坂・ 石沢・石井・今泉・井伊・井狩・石川・井上・稲垣・井谷・稲葉・井田・五十嵐・石山・岩井・池畑・家田
う) 梅田・内田・宇佐見・鵜野・植村・臼杵・梅村・梅津・内口・宇田・海谷
え) 榎本・江原・江草・越前・江間・江川
お) 小笠原・奥平・尾崎・小野田・岡田・岡崎・奥山・大久保・荻田・大根田・小沢・小河原・ 大薮・太田・大竹・岡本・大島・小河・尾関・大熊・岡野・小川・大平・大須賀・落合・大村・大藤・大倉・ 小倉・奥田・大森・大井

か) 加藤・片山・片岡・片桐・筧・貝原・川合・掛川・川上・葛岡・河合・河津・金沢・川佐・ 鴨田・川本・勝田・勝山・笠岡・梶田・粕谷・川村・金子・川崎
き) 木戸・岸・岸野・木口・岸田・北村・木村・岸本・菊地
く) 黒谷・黒屋・黒沢・栗田・草生・熊谷・櫟田・黒宮・久保代・栗本・久代・倉田・草刈・ 久保利・熊ケ谷・栗木・久保村・黒川
こ) 小幡・後藤・小林・小泉・小山・小杉・小室・河野・近藤・国分・国支・小松・小島・越川

さ) 佐橋・沢井・佐藤・沢・榊原・桜井・斎藤・佐久間・沢田・坂口・佐伯・里見・坂本・佐々木・ 沢山・坂野・酒井・佐野
し) 柴田・新宮・白石・渋谷・設楽・志村・篠原・塩野・篠田・清水・下村
す) 杉浦・杉本・鈴木・杉野目・杉野・眇田・菅沼・菅波・須山・杉村・末吉・杉原
せ) 世川・関口・妹尾・瀬谷・世良
た) 田島・武田・竹下・竹之下・田辺・高岡・高木・大門・大地・大支・高橋・竹田・田中・ 立川・田岡・竹中・高垣・高田・田代・谷口・達馬・瀧口・田村
ち) 千葉
つ) 柘植・作手・辻・津田・辻村・坪井・土屋・筒井
て) 寺島・寺崎・寺田
と) 鳥居・冨永・徳重・友道・徳田・豊田

な) 内藤・長崎・中野・永田・長坂・中村・長野・永橋・中島・長橋・中居・中川・直木
に) 蜷川・丹羽・西山・西田・西村・新村
ぬ) 沼生
の) 野瀬・野坂・野間・野村・野口

は) 原田・服部・萩野・伴・芳賀・畠山・橋本・林・馬場・早川・原・長谷川・羽山・半田・ 原口・長谷部
ひ) 平野・平賀・平井・土方・久川・人間・広井・平川
ふ) 古市・藤井・船越・二味・藤村・福村・福井・布施・福田・藤田・藤口・古川
へ) 別所
ほ) 本庄・星野・堀場・本田・堀江・細井・本多

ま) 松平・益田・松宮・松岡・松島・丸山・松田・松原・松本・牧野・松尾・松村・牧・蒔田・ 松沢・松屋・丸尾
み) 三好・三浦・宮崎・水野・溝部・未昧・三輪・三島・水谷・水田・宮村・水越
む) 武藤・村上・村越・村野・村瀬
め) 目崎
も) 森・森岡・望月・森尾

や) 山田・山名・安井・山下・薮田・山鹿・山北・矢島・弥田・山本・矢田・山野・山内・山中・ 山崎・柳・谷田・山村
ゆ) 湯浅
よ) 芳川・吉田・吉川・横田・吉村・横井・横江・吉安・吉見・横山・吉岡
わ) 渡辺・和田・鷲尾・若林

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