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松代藩家臣のご先祖調べ

 元和8年(1622)信濃国上田藩主真田信之信濃国埴科郡・更級郡・水内郡・高井郡に10万石の所領を与えら、 上野国利根郡・吾妻郡の3万石も安堵され13万石で入封します。
 後に上野国沼田領は分地され、以後10万石として幕末まで続きます。

松代藩
  藩庁 松代城(長野市松代町)  
  江戸屋敷 上屋敷(千代田区霞が関) 中屋敷(港区赤坂)  
  石高(表高) 10石
  江戸城控間 帝鑑間
  格付け 城主
  爵位 子爵

松代藩の歴代藩主
真田氏 家紋:六文銭
本姓:滋野姓海野氏
菩提寺:曹洞宗長国寺
 (長野市松代町)
代数 氏名 官位 在職
真田信之
(のぶゆき)
従五位下・
伊豆守
元和8年(1622) ~
明暦2年(1656)
真田信政
(のぶまさ)
従五位下・
内記
明暦2年(1656) ~
万治1年(1658)
真田幸道
(ゆきみち)
従四位下・
伊豆守
万治1年(1658) ~
享保12年(1727)
真田信弘
(のぶひろ)
従五位下・
伊豆守
享保12年(1727) ~
元文1年(1736)
真田信安
(のぶやす)
従五位下・
伊豆守
元文2年(1737) ~
宝暦2年(1752)
真田幸弘
(ゆきひろ)
従四位下・
右京大夫
宝暦2年(1752) ~
寛政10年(1798)
真田幸専
(ゆきたか)
従四位下・
弾正大弼
寛政10年(1798) ~
文政6年(1823)
真田幸貫
(ゆきつら)
従四位下・
右京大夫
文政6年(1823) ~
嘉永5年(1852)
真田幸教
(ゆきのり)
従四位下・
右京大夫
嘉永5年(1852) ~
慶応2年(1866)
10 真田幸民
(ゆきとも)
従二位・
信濃守
慶応2年(1866) ~
明治2年(1869)

松代城下
 松代城は、武田信玄が永禄元年(1558)に北信支配の重要拠点として築いた海津城を前身としています。
 その後、城主は度々代わり、元和8年(1622)に真田信之が松代藩主として入城して以来、藩主が固定します。
 松代城の北西側には千曲川が流れ、自然の要害をなしています。最北部の本丸には政庁や藩主御殿がありましたが、度重なる水害のため明和7年(1770)に御殿を南西部の花の丸に移しています。 南側の城下に向けて二の丸三の丸などの曲輪を備えています。
 松代城下町は、真田氏入封以前に形作られており、城下在駐の軍兵の生活を支えるために、城下に商人・職人が定住していました。 すなわち武田時代に商人・職人の定着が始まり、諸大名に付き従ってきた者も加わり、真田氏が入封した頃には城下町の土台が出来ていました。
 松代城下は、松代城周辺の殿町片羽町厩町に上級武士屋敷、 その周辺の田町松山町袋町馬場町代官町などに中級武士屋敷、城下入口付近に下級武士が配置されました。 町人町屋敷は北国脇往還に沿いと、その東の裏通りに置かれました。
 松代城下を通る北国脇往還は、慶長8年(1603)までは本道でしたが、善行寺を通るコースが北国往還として整備されると脇往還に転落し、 須坂藩・飯山藩の参勤交代の通路、大雨で北国往還が不通の時に利用される程度になります。 よって小規模ながらも、松代町は北国脇往還の宿場町として機能も合わせ持ち、宿駅の伝馬を差配する宿問屋や検断が置かれました。
 北国脇往還は西の清野村から松代城下に入り、「上三町」と称された馬喰町紙屋町紺屋町が両側町として開かれました。 東に進む脇往還は木町(伊勢町の一部ともされた)で北に折れ、伊勢町中町荒神町と続きます。この3町を「本三町」と称します。 中町の東の裏通りには、肴町鍛冶町が連なり、以上8町が「町八町」とよばれ、城下町屋の中心でした。

松代藩の家臣団
 松代藩の家臣団は、前任地の上田領からの家臣と、沼田領から真田信政公に付いき従った家臣が中心で、下級武士の足軽・仲間は松代領から採用されました。
松代藩では上・中級の家臣には領地(知行所)が与えられ、下級の家臣には藩蔵から蔵米が支給されました。前者を知行取家臣(地頭)、後者を蔵米取家臣といいます。
 その比率は15対85で、他藩と同様に蔵米取家臣が圧倒的に多い構成となっています。

 藩士の格式(席)には、家の格式・序列と役職上の格式・序列の2つがあります。役職は家の格式(席)により決められます。
 松代藩家臣の家の格式には連枝席・家門席大身席(家禄1000石以上)、番頭席(家禄400石以上)、 差立席(家禄400石~200石)、寄合席(家禄300石以上)、物頭席(家禄200石以上)、使者間席(家禄100石以上)、 広間席(家禄100石以下)、新番席給人並徒士席小頭席足軽仲間がありました。

 <在郷足軽制度>
 松代藩には独自の足軽(同心)制度があります。
 足軽(同心)は町人・農民から採用され、松代藩家臣団の過半数1000人余りを占めます。その大部分は重臣層の附同心です。 足軽全体を統括する足軽奉行が置かれ、その役所として割番所が設置されました。松代藩の場合、城下の足軽長屋(同心町・下田町・厩町など)に居住する足軽(同心)は全体の20%に過ぎず、多くは城下の町内もしくは城下周辺の農村に居住し、城下へ通って勤仕していました。 これを在郷足軽制度といいます。津藩の無足人制度や薩摩藩の郷士制度に同様のケースです。
 有事の際に緊急招集出来ること、城下を防備することなどを考慮して、城下の町や川中島地区など近隣村落から多くの足軽が取り立てられています。 よって在郷足軽は専業ではなく、足軽を勤めながらも商業・職人・農業に従事する兼業の者が多くいました。

      ⇒江戸時代の武家の一生(ライフサイクル)

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松代藩の家臣
『寛永10年分限帳』(真田信之時代)より藩士家名
あ) 赤沢・安藤・荒川
い) 出浦・池田・岩崎・伊木・井上・市川・色部・石黒・井口
う) 海野・浦野・上田・上原・上村<
お) 小野・大熊・小幡・恩田・岡島・大瀬・太田・大日方・小川・岡本・興津

か) 河原・河野・金井・片山・片岡・糟尾・川井・加茂・鎌原・狩野
き) 木村
く) 窪田
こ) 小玉・小松・木暮・小山・近藤・小林

さ) 沢・佐野・斎藤
し) 白川・島津・正村
す) 菅沼・春原・鈴木
せ) 千場・関山・関口・関島

た) 玉川・田中・竹内・高山・高田
つ) 柘植・鶴田

な) 長井・成沢・中沢・長森
ね) 祢津

は) 原・橋詰・羽田
ひ) 樋口・平林・平井
ほ) 堀田

ま) 松崎・前島・丸山
み) 宮川・三井・緑川
む) 村上
も) 森・師岡

や) 矢沢・矢野・矢島・山田・大和・柳・山寺・山野井・山室・山越・山中
よ) 与良
わ) 綿内

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