第52代嵯峨(さが)天皇 ~平安京政治の土台をつくる
延暦5年(786)生 ~ 承和9年(842)7月15日崩御 <在位:大同4年(809) ~ 弘仁14年(823)>
桓武天皇の第2皇子、諱は神野(賀美能・かみの)。嵯峨源氏の祖。
母は平城天皇の同じく、藤原式家藤原良継の娘・藤原乙牟漏。平城天皇の譲位を受け、大同4年(809)に即位しました。翌大同5年9月に改元が行われ、「弘仁」となります。
平城上皇が復権を試みた「薬子の変」により、平城上皇の第3皇子高岳親王は皇太子を廃され、異母弟の大伴親王(後の淳和天皇)を皇太弟に立てらてました。
嵯峨天皇時代は政治が安定し、平安朝の政治・文化・宗教の土台を作ったといえます。律令制を整備するため「弘仁格」「弘仁式」が編纂され、天皇の秘書的役割を果たした蔵人所(くろうどところ)を新設されました。蔵人頭には巨勢野足と藤原冬嗣が任命されます。藤原冬嗣は嵯峨天皇より信任が厚く、嵯峨朝政治の中枢に入っていきます。藤原四家筆頭の地位確立の土台を作ったといえます。その他、真言宗の開祖空海や小野篁ら多くの人材に恵まれ、政務は藤原園人(藤原北家)を中心とする官僚に任せ、嵯峨天皇は文治的事業に専念しています。勅撰の漢詩集『凉雲集』などの編纂、平安京十二門を唐風に改名、宮中儀式も唐制に改めるなど、唐風文化が隆盛しました。また能筆家として知られ、空海・橘逸勢とともに三筆と称されています。
また弘仁13年(822)には最澄に大乗戒壇の設立を認め、翌弘仁14年(823)には空海に東寺を与え、天台宗・真言宗の興隆を支えています。
一方、弘仁年間は飢饉も多く、朝廷財政難も深刻でした。そこで耕作放棄などの荒田を再開発するため、大土地所有の制限を緩和して、国家直営の公営田・勅旨田の設置などが行われました。
弘仁14年(823)大伴親王(淳和天皇)に譲位し太上天皇となり、洛外の嵯峨院(後の大覚寺)に移り住みました。承和9年(842)7月15日に崩御され、陵は嵯峨山上陵(さがのやまのえのみささぎ:右京区北嵯峨朝原山町)に葬られました。
嵯峨天皇には多数の皇子皇女がいました。その生活費は朝廷の財政を圧迫したため、皇子17名と皇女15名に姓を与えて臣籍降下させました。これは弘仁5年(814)に信(まこと:北辺大臣)・弘(ひろむ:広幡大納言)・常(ときわ:東三条左大臣)の3皇子に源氏を授けたことに始まります。一世源氏は順調に出世昇進し、藤原北家とともに一大勢力を築きますが、三世以降は朝廷内での活躍はみられません。一方、源融(とおる:河原大臣)の子・昇(のぼる:河原大納言)の子孫は地方に下って武家源氏となりました。渡辺氏・松浦氏・赤田氏・蒲池氏などです。