第51代 平城(へいぜい)天皇 ~平城京への還都を目指した
宝亀5年(774)生 ~ 天長元年(824)8月5日崩御 <在位:延暦25年(806) ~ 大同4年(809)>
諱は小殿(おて)、後に安殿(あて)。第1皇子の阿保親王の子孫から在原氏が出る
早良親王の廃太子により、安殿親王(のち平城天皇)が延暦4年(785)12歳で立太子しました。母は藤原式家藤原良継の娘・藤原乙牟漏です。延暦25年(806)父・桓武天皇の崩御により即位し、代始により大同元年に改元されます。33歳の時です。平城天皇は、妃の母である藤原薬子を寵愛し、その兄・藤原仲成を優遇しました。即位当初は意欲的に政治に取り組み、遷都と蝦夷征討で逼迫した国家財政再建のため政治・経済の立て直しに努めました。
ところが平城天皇は病気がちで、転地療養を試みましたが効果がなく、大同4年(809)4月に在位わずか3年で弟の神野親王(のちの嵯峨天皇)に譲位し、上皇となって同年12月旧都平城京へ移り住みました。まもなくすると平城上皇の病も癒え、健康が回復しました。いまだ30代の若さの平城上皇は再び国政への関心を示し、上皇の命令と称して政令を発するようになります。当初朝廷は無駄な摩擦を避けるため上皇方の横暴に耐えてきましたが、その結果「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態に陥りました。さらに権勢を取り戻したい藤原仲成・薬子兄妹の強い要請を容れ、平城京への遷都と政権奪取を画策するに至りました。
嵯峨天皇はその機先を制して、藤原仲成を捕縛し、藤原薬子の官位を剥奪しました。事態の急変に慌てた平城上皇は東国への脱出を試みましたが、坂上田村麻呂ら軍勢に遮られ、失意のうちに平城京に戻り剃髮して仏門に入りました。藤原薬子は服毒自殺し、兄藤原仲成は射殺されました。これにより平城上皇の子である高岳親王は皇太子を廃され、代わって嵯峨天皇の弟・大伴親王(のち淳和天皇)が立太子立しました(薬子の変)。
近臣は追放されましたが、平城上皇は平城京に滞在し、「太上天皇」の称号はそのままとされ、嵯峨天皇の行幸も受けています。また廃太子となった高岳親王は四品親王(親王の中で第4位の位階)の身位を許され、相応の待遇は保障されていました。
陵は、奈良市佐紀町の楊梅陵(やまもものみささぎ)です。