第50代 桓武(かんむ)天皇 ~平安京への遷都

天平9年(737)生 ~ 延暦25年(806)4月9日崩御 <在位:天応元年(781) ~ 延暦25年(806)>

第38代天智天皇の孫、白壁王(のちの光仁天皇)の第1皇子として天平9年(737)に生まれました。母は百済系渡来人氏族の和氏の高野新笠(たかのにいがさ)、諱は山部(やまべ)といいました。

当初、母の出自の低さから皇族として出世は期待されていませんでした。ところが突如皇后井上内親王が夫である光仁天皇を呪詛した罪で皇后の地位を廃され、それに連座して他戸親王が皇太子(王位継承者)を廃されました。これにより宝亀4年(773)山部親王が皇太子となりました。その背後には式家の藤原百川の暗躍があったとされています。藤原百川は光仁天皇擁立にも動いた人物です。当時の朝廷内で絶大な権力があったと思われます。

天応元年(781)光仁天皇が譲位され桓武天皇が即位します。45歳の時です。皇太子には同母弟早良(さわら)親王が立てられました。翌天応2年(782)8月には桓武天皇の代始により、改元されて延暦元年となります。延暦2年(783)には藤原乙牟漏(百川の兄・藤原良継の娘)を皇后とします。乙牟漏との間には、平城天皇と嵯峨天皇が誕生します。延暦4年(785)には藤原百川の娘藤原旅子が桓武天皇の後宮に入ります。旅子との間には淳和天皇が誕生しています。

延暦3年(784)政情不安や凶作・疫病流行を理由に、長岡京への遷都を決意します。ところが翌延暦4年造営の責任者であった藤原種継が暗殺される事件が起こります。この背景には藤原氏と大伴・佐伯両氏との確執、勢力争いがあったとされます。事件関係者が摘発されるなか、早良親王にまで嫌疑が及び、早良親王は皇太子を廃された上、乙訓寺に幽閉されてしまいます。早良親王は抗議の絶食を続け、淡路への配流途次で衰弱死しました。

その後、天皇の身辺では忌まわしい出来事が頻繁しました。早良親王の祟りを恐れた桓武天皇は人心の一新を図るべく、和気清麻呂らの提言を受けて延暦13年(794)平安京へ改めて遷都しました。また東北地方の蝦夷を平定するため、3度にわたる蝦夷征討軍を派遣します。延暦20年(801)の坂上田村麻呂を征夷大将軍に抜擢した3度目の遠征では大勝し、族長アテルイら500人の蝦夷を京へ護送しています。延暦22年(803)には志波城(現・盛岡市中太田あたり)が築かれ、朝廷の支配権は北上川北部まで及ぶことになりました。治世晩年の延暦24年(805)には、平安京の造作と蝦夷征討の軍事遠征が百姓を苦しめているとの建言を容れて中断しています。

平安京遷都後も、桓武天皇早良親王の怨霊に怯え続けます。延暦19年(800)には「崇道天皇」と追号し、諸国の国分寺に命じてさかんに読経を行なわせました。

桓武天皇は延暦25年(806)3月17日に崩御され、安殿親王(平城天皇)が即位しました。陵は柏原陵(かしわばらのみささぎ:京都市伏見区桃山町永井久太郎)とされています。